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鉄人大野均はなぜ、体を張り続けるのか

松瀬学ノンフィクション作家(日体大教授)

聖火台の炎が燃える。

その前の国立競技場のピッチでは、36歳の鉄人の闘志が燃えた。国立建て替え前、最後の公式戦となった25日のアジア五カ国対抗ラグビーの日本×香港。ジャパン最年長の大野均(東芝)がからだを張った。

日本は、圧勝して、8大会連続のワールドカップ(W杯)出場を決めた。大野は、日本代表歴代最多のキャップ数(81)に並んだ。

記録のことを聞いても、大野は「単なる通過点」と乗ってこなかった。

「数字は、現役が終わってから振り返るもの。ただ、勝ってホッとしている。最年長として、試合だけでなく、練習なり、ふだんの生活なり、チームに対して、いい影響を与えられるように、これからもやっていきたいと思います」

だから、いつも全力プレーである。モットーが『灰になっても、まだ走る』。足がつっても、その足をひきずりながら走り続けるし、巨漢選手に倒されても立ち上がり、密集には頭からガツンガツンと突っ込んでいく。

地味ながら、大野のワークレート(仕事量)は群を抜く。香港戦の最初のジャパンのトライ。左のラインアウトから、FWがモールを押し込む。押し崩れると、すぐに大野は立ちあがり、また頭をラックの固まりに差しこんで、足を懸命にかいた。押す。

そのボールが右に出て、最後は右オープン展開からハタチのWTB藤田慶和が右隅に飛び込んだ。大野をはじめとしたFWが前に出て、生きたボールをバックスに出したからこそのトライだった。

順当勝ちとはいえ、大野も試合前は緊張していた。勝てば、日本のW杯出場が決まる。「緊張しないと思っていたけど、いつもよりトイレにいく回数が増えました」と笑って打ち明ける。チームも気負いからか、試合ではハンドリングミスが相次いだ。

大野が説明する。「(トライを)取り急いだというのはあった。フィフティーフィフティーパス(通るかどうか五分五分の難しいパス)はやめようと言っていたのに…。香港のプレッシャーも厳しかった」と。

大野は高校時代、野球部だった。大学でラグビーをはじめ、東芝に入社してから急成長した。初めてジャパンで出場したのが、2004年5月の韓国代表戦だった。以後、10年。こつこつと鍛練を続け、キャップ数(テストマッチ出場数)を積み重ねてきた。

誠実な人柄は、だれからも愛される。かつて「鉄人」と呼ばれた79キャップ(歴代3位)の元木由記雄さんは、大野をこう、評した。「すごいですよ。あのトシでも元気でプレーできているのは、自分を律してやっている成果でしょう。タフな人間でないと、キャップ数は増やせない。それもフツーのタフではだめです。なんといっても、自分に負けない気持ちを持っているのでしょう」と。

なぜ、ジャパンで長期間、プレーできているのだろう。強靱なからだ、スタミナもあるけれど、大野は「このチームで勝ちたいから」と言い切った。

「常に日本代表として試合に出続けたいという思いを持ってやっています。運良く、選ばれ続けてきました。エディーさん(ジョーンズヘッドコーチ)になってから、オフの過ごし方も変わってきた。合宿が始まるとすぐトップギアに入る練習なので、ふだんのオフの生活も、走ったり、ウエイトしたり、ハードになりました」

大野はどん欲でもある。まだまだ成長しようと意識する。努力する。闘志を燃やす。

「自分の中では、もっとパススキルも磨きたいと思っています。ハンドリングエラーを無くしたい。ちょっとしたイージーミスで、流れを相手に持っていかれてしまうから」

30日にはサモアを東京・秩父宮ラグビー場で迎え撃つ。その後もカナダ、米国、イタリアと強豪との対戦がつづく。来年は、イングランドでのW杯。

自身3度目となるW杯へ、ラグビーに生きる“キンちゃん”こと大野均はからだを張り、走り続けるのである。

ノンフィクション作家(日体大教授)

早稲田大学ではラグビー部に所属。卒業後、共同通信社で運動部記者として、プロ野球、大相撲、五輪などを担当。4年間、米NY勤務。02年に同社退社後、ノンフィクション作家に。1988年ソウル大会から2024年パリ大会までのすべての夏季五輪ほか、サッカー&ラグビーW杯、WBC、世界水泳などを現場取材。酒と平和をこよなく愛する人道主義者。日本文藝家協会会員。元ラグビーワールドカップ組織委員会広報戦略長、現・日本体育大学教授、ラグビー部部長。著書は近著の『まっちゃん部長ワクワク日記』(論創社)ほか『荒ぶるタックルマンの青春ノート』『汚れた金メダル』『なぜ、東京五輪招致は成功したのか』など多数。

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