親ガチャの哲学「親ガチャの真の問題とは何か」
こんな親から生まれてきた「から」わたしの人生はこうなった、という考えを親ガチャと呼ぶ――親ガチャという言葉の意味をわたしはそんなふうに理解しています。しかし、親ガチャがあれば子ガチャがあるはずです。すなわちこんな子を産んでしまった「から」わたしの人生はこうなった、という親の嘆きがあるはずです。しかし、子ガチャという言葉は(ほぼ)聞かないですよね? そういう親は子を捨ててさっさとどこかに行くのでしょうか。夫と子を置き去りにして新しい彼氏と新しい暮らしをはじめる母親のように。
さて、親ガチャの真の問題とは何かについて、哲学をもとにお話しましょう。
親とソリが合わなかった哲学者にキルケゴールがいます。彼は父親に対する不平不満を日記にたくさん書き残しています。母親のことはほぼ何も書いていません。父親は相手にされるだけまだ「マシ」だったのでしょうか。つまり母親はキルケゴールにとって侮蔑の対象でしかなかったのでしょうか。書き残されていないことを論ずる勇気のある哲学者は少ないのか、キルケゴールが母親のことをどう思っていたのかについて書いてある論文を私は読んだことがありません。
さて、そのキルケゴールは絶望にはいろんな種類があると言いました。そのうちのひとつは反抗です。神に反抗する。神というのは、人知を超えた存在という意味であり、イエス限定というわけではありません。わたしは『死に至る病』をそのように解釈しています。
人知を超えた存在に反抗するというのは例えば、この自分とその親をマッチングした神さまに対して「なんでこの親にしたねん」と反抗する。あるいは、学者になりたいのに頭が足りないゆえなれなかった場合、「神はなんでオレのことをもっとお利口さんに生んでくれへんかったんやろ。神、頭おかしんちゃうか」と神さまに食ってかかる。その結果、自暴自棄な生きざまになる。そういったことです。
つまりキルケゴールは、直接的には親ガチャを憂い、親に反抗したものの、より本質的には、その親とこの子(自分)をマッチングさせた神に反抗した。能力不足の状態で自分をこの世に産み落とした神に反抗した。
わたしは親ガチャの本質はそこにあると考えます。親だってなにもすき好んで「その性格」を持って生まれてきたわけではないし、すき好んで貧乏になる方を選択的に選んだわけではないからです。精一杯がんばって頑張ってがんばって、それでも「そのように」しかなれなかった。そのような親が子を産んだら、例えば子は「貧乏とわかっているのならわたしのことを産むなよ」と思う。しかし、それだって人間の力を超えた何者か(キルケゴールはそれを永遠と名付けた)がそうした。
今の世の中はわかりやすい因果関係を好みます。また、なんらか不都合なことや理不尽なことが起これば、その原因を特定のだれかに見ようとします。デカルトが見たらワンチャン自責の念に駆られるような理性社会の成れの果てです。だから「親ガチャ」にハズレたとなれば、当然のように親にその原因を求め、親がこう「だから」わたしがこうなったと考える。まあ、それはわかります。親が暴力をふるう人「だから」あなたは複雑性PTSDかつ不安障害かつウツ病になった。そうでしょ?
しかし、より大局的に見るなら、端的に選べなさが原因です。先に述べたとおり、親とてどんなに頑張っても「そう」にしかできなかったのですから。要するに、能力の限界。したがって、わたしの哲学的興味は選べなさの原因にあります。なにがわたしたちの人生を規定しているのか。つまり選べなさとはなにか。
選べなさについてジャック・ラカンは、例えば反復強迫といいました。フロイトは死への欲動といいました。メルロー=ポンティは身体(性)を主張しました。わたしは彼らの理路をいたく愛していますが、しかしその先はどうなっているの? と思います。形而上学、すなわち神様学ではないロジックを知りたいし、構築したいのです。なぜかはわからないけれど人生って選べなさに規定されてるんだよね~、という彼らに対して「なぜそうなっているのか」、その原因を問いたいのです。しかし彼らはみな故人ですから、わたしが勉強するしかありません。そのことで人生の暇が潰れますから、それはそれでいいなあと思います。(ひとみしょう/哲学者)