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産総研中国人研究者情報漏洩事件と「千人計画」~安易な関連付けはリスク

榎木英介病理専門医&科学・医療ジャーナリスト
(写真:イメージマート)

 衝撃的なニュースだ。

 産業技術総合研究所(産総研)の中国人研究者が中国企業への情報漏洩で逮捕された。

 化学研究者であり、地球温暖化の防止に有効なフッ素化合物の合成に関わる技術情報の漏洩だという。一部メディアでは軍事関連技術の流出に結び付ける記事もあったが、地球温暖化関連の技術漏洩ということもあってか、容疑は軍事転用可能な技術流出が対象となる外為法違反ではなく、不正競争防止法違反による逮捕となっている。

 容疑者は情報漏洩先の中国企業の日本法人の代理店を務め、情報漏洩メールの送信から一週間後には中国企業が特許申請をしていたという。これまでに報道されている範囲では、典型的な産業スパイ案件と考えられる。このような事件はあってはならないことであり、法に基づいて厳しく対処すべきだ。今後の捜査の進展に注視したい。

「千人計画」に参加?

 一方、関連して気になる報道もあった。今回の件を中国の千人計画に結び付ける報道だ。

 今回の事件は中国企業相手の情報漏洩であり、千人計画は直接関係がない。だが、見出しや記事の論調からは千人計画があったから情報漏洩が起きたという印象を受ける形になっている。また、千人計画に対して「多額の報酬を引き換えに技術を流出させるためのもの」「アメリカ等各国が警戒を強めている」という前提で報道している。

 しかし、アメリカの実態とは異なる。

 すでに記事で詳説したとおり、アメリカは5年前に千人計画と関係しているかどうかを大きな焦点に「チャイナ・イニシアチブ」と呼ばれる施策を行った。一連の捜査で大量の中国人研究者を逮捕した。しかし、多数の冤罪を生む一方、いわゆる技術スパイの検挙にはほとんどつながらず、捜査は昨年中止されている。その上、それらの大量逮捕が中国人研究者のアメリカ忌避へとつながり、アメリカから中国への大量の人材流出にまでなった。

 今回の報道は、このアメリカの旧「チャイナ・イニシアチブ」の当初の方針を後追いするかのようだ。

 アメリカの「チャイナ・イニシアチブ」中心から得るべき教訓は、技術スパイ案件は技術漏洩に該当するかどうかそれ自体で判断されるべきで、千人計画かどうかを判断に色分けしても、冤罪を生む可能性があるということだ。これは技術スパイの摘発につながらず、国益を害する恐れがある。

千人計画の実態とメディア報道のズレ

 だが、残念ながらこうした事情は日本ではほとんど報道されておらず、特に日本版「チャイナ・イニシアチブ」のはしりとなった読売新聞の千人計画特集により、日本では千人計画に対して「外国人を対象にしている」「軍事関連の技術流出と引き換えに高額報酬」という印象が広まる結果となった。

 外国人が対象という印象に引きずられているからか、産総研の中国人研究者の事件と千人計画を結び付ける報道でも「外国人研究者のほか、海外で活躍する中国人研究者も含まれ」と但し書きがみられる。

 だが、これらは千人計画の実態とは異なる。千人計画については文科省の関連組織である日本学術振興会や科学技術振興機構が詳しいレポートを出している。

 要点は以下だ。

  1. 採択者の9割が中国人
  2. 理学系から工学系まで幅広い研究分野が対象
  3. 給与についても約680~1020万円程度といった年収が相場
  4. (今回の産総研の事例のような)兼務型は一部であり、中国の大学のフルタイム勤務が基本

 千人計画かどうかに固執すると、技術流出とは直接関係ない基礎研究者が対象になり、前提と実態の間に乖離が出てしまう。アメリカの「チャイナ・イニシアチブ」が失敗に終わったのもこれが理由だ。

 だが、読売新聞が熱心に報じた千人計画に関する記事などではそういった実態は紹介されず、なぜか日本の大学職がない故に中国の大学にフルタイムで渡った日本人の基礎科学研究者ばかりを批判の対象にしていた。

 こういった研究者はそもそも流出させるような技術がない。さらにこういった若者が中国に渡らざるを得ないのは、日本の大学における長年の交付金削減や「選択と集中」政策などにより常勤職を減らさざるを得ないことが背景にある。世界大学ランキングや論文ランキングでの日本の低迷が知られるようになって久しい。

 にも拘らず「千人計画で大金と引き換えに技術を流出させている」という的外れなバッシングが起こり、日本人の基礎科学研究者の方々が誹謗中傷に晒された。

 こんな中、「日本に常勤職がありつつも、中国の機関を兼務している中国人の応用化学研究者」が逮捕された。

 これまでメディアがバッシングしてきた「日本に常勤の安定した研究職がない故に中国に渡った日本人の基礎科学研究者」とほぼ真逆ではないか。この数年間の空騒ぎはいったい何だったのか。本来は関係ない基礎科学研究者の人生を狂わせたことを日本の一部メディアは深く反省するべきであろう。

 また、今回の逮捕者が千人計画かどうかを元に色分けするのも過去の過ちを繰り返すことにつながる。

 今回のような応用技術の企業への漏洩に対しては個別に対処するべきであり、「千人計画であるかどうか」に固執するのはかつての過ちを繰り返すだけだ。流出させるような技術をそもそも持たず、高額報酬どころか日本に職がない故に中国に渡った日本人基礎研究者へのバッシングを再燃させることになる。それは人権侵害であるのみならず、運営費交付金削減等により厳しい状態に直面する日本の大学や基礎研究の状況を覆い隠すのみで、安全保障のプラスにもならない。

 今回の事件を、「千人計画」のほか、人民解放軍と関係がある「国防7校」の教授を兼務といった、経済安全保障案件と印象付ける報道が多い。

 現在国は経済安全保障に関して矢継ぎ早に政策を立案、実施している最中だ。

 それはそれで重要であるが、こうした政策の世論的な後押しを行うために、産業スパイ案件を経済安保案件と印象付けようとする意図を感じてしまう。

 いくら私などが記事を書いても、中国に渡った基礎科学研究者がいまだバッシングを受けているように、ふわっとしたイメージはなかなか消えない。

 こうしたことは、短期的には利益が出る。経済安保コンサルタントなどの仕事はますます盛況になるだろう。

 しかし、応用技術を流出させているとして、そうした技術を持たず、日本に職のない日本人基礎科学研究者を叩き続け、ズレた警戒を続けることは、長期的には優れた人材の国外流出や科学研究分野からの流出を促す「毒饅頭」だということは、知っておいたほうがいい。アメリカの「人材流出国」への転落はそれを示している。

病理専門医&科学・医療ジャーナリスト

1971年横浜生まれ。神奈川県立柏陽高校出身。東京大学理学部生物学科動物学専攻卒業後、大学院博士課程まで進学したが、研究者としての将来に不安を感じ、一念発起し神戸大学医学部に学士編入学。卒業後病理医になる。一般社団法人科学・政策と社会研究室(カセイケン)代表理事。フリーの病理医として働くと同時に、フリーの科学・医療ジャーナリストとして若手研究者のキャリア問題や研究不正、科学技術政策に関する記事の執筆等を行っている。「博士漂流時代」(ディスカヴァー)にて科学ジャーナリスト賞2011受賞。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。近著は「病理医が明かす 死因のホント」(日経プレミアシリーズ)。

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