樋口尚文の千夜千本 第21夜「百円の恋」(武正晴監督)
マテリアル・ガールのファイティング・ポーズ
三十路にあってシケた毎日にくすぶる女子が、突然ボクサーになろうと奮起する些細な日常の冒険譚が、なぜこんなにも面白いのだろうか。そもそもボクシングにまつわる映画なんてみんな数えきれないぐらい観ているだろうに。
『ロッキー』『あしたのジョー』『レイジング・ブル』『チャンプ』といったお定まりコースから、古くは『非情の罠』『若者のすべて』『傷だらけの栄光』なんていうのもあった。新しめのほうでは『ボクサー』『ALIアリ』『ザ・ファイター』などの佳篇が続々と挙がるし、『ミリオンダラー・ベイビー』という一筋縄ではいかない傑作も記憶に鮮やかだ。わが日本映画でも『どついたるねん』に『キッズ・リターン』にと珠玉の作があるし、先日鬼籍の人となられた菅原文太さんが寺山修司監督と組んだ『ボクサー』なども大好きな異色篇である。そういう映画ファンが舌なめずりするボクシング映画の系譜というものがあるので、いま新たにボクシング周りの映画を作るというのはなにがしかの覚悟抜きにはできないことだろう。
だが、脚本の足立紳、監督の武正晴、主演の安藤サクラをはじめとするスタッフ、キャストは、あたかも劇中の一子そのままに、そんなボクシング映画の歴史になんか真っ向からかなうわけがない、負け試合は約束されてるんだからとにかくリングにあがることに意義ありと言わんばかりの、軽やかなチャレンジマインドで試合にのぞみ、そして一子そのままにボクシング映画史のおごそかなる記憶の壁に対して確実に効いた感のある、一発の非凡なるストレートをお見舞いしてくれたのだった。
ではこのお定まりの試合展開をひととき逸脱して、困難な一撃を実現せしめたものは何であったかといえば、それは(本作を半ばまで観ていたところでほぼ確信したのだが)この作品でのボクシングが明らかに日常を離脱するためのハレの華ではなく、あらかじめかったるい日常に回収されているということだ。まず、ゲームとスナック菓子と炭酸飲料につかったふやけた肉体にハードな改造を試みる一子自身が、自分がどこまで突き詰めても試合に出るだけでせいいっぱいだろうとわかっているふしがある。また彼女を見守るジムの人々にせよ、彼女のやる気に瞠目させられながらも、それで可能性が開けるほどこの世界は甘いもんじゃないという認識は揺るぎない。
つまりは一子は底辺の人びと、または心の病んだ人びとの巣窟である百円ショップの店員をやりながら、その澱みから逃走しようとボクシングにのめってゆくわけだが、そんな思いが実ってカッコいいことになろうとは本人も含めて誰も考えていないようなムードなのである。しかし、そうすることで何ものも変わらないであろうと気づいているにもかかわらず、一子は何ものかに向かって一途に拳をふるわなければ気がすまないのだ。それだから、本作のボクシングの練習シーンも試合シーンも、一子のシケた日常から分断されたイキのいいものではなく、むしろその延長として一子の日常に対する思いや衝動を映した人生のひとコマなのである。一子はボクシングで生まれ変わろうとも、不義理をはたらいた不甲斐ない男を振り向かせようとも思っておらず、それでもなお拳で宙をどつかずにはいられない。だから、顔をぼこぼこに変形させられながらもゾンビのように試合をやめない一子のボクシングは、もはや闘いではなく生きることへのもがきそのものなのである。
当初は懸命にボクシングにのめりながらも開花せず、行き当たりばったりでつきあうようになった女と豆腐売りになってしまう新井浩文の演技造型が余りにも素晴らしい。新井がぬけがらのように体現する日常性の退屈と残酷が、一子をボクシングに駆りたてる背景を無言のうちに炙り出している。このほか、絶望的に感じ悪く全てが終わっている百円ショップ店員に扮した坂田聡(本当に気色がわるい演技が秀逸だった!)を筆頭に、すみずみまで役柄にぴたりとはまったキャストに占められていて、そのお仕着せの配役では絶対に味わえない演技の数々がまた見逃せなかった。
本作と姉の安藤桃子監督の力作『0.5ミリ』での鮮やかな演技によって、一子に扮した安藤サクラは驚きとともに熱烈な賞賛を集めているところだ。折しもキネマ旬報のオールタイム女優ベスト・テンで、高峰秀子や原節子、田中絹代と並んで安藤サクラが第八位に選ばれたことが大きな話題になっていたが、ここまで無駄なエゴを葬り映画に対して捨て身=マテリアルになれる稀有な才能なのだから、けだし当然の評価と言えるだろう。そして本作は、そんな逸材の機嫌よく暴れまわるさまを、衒わずに真っ向から撮っていった武正晴監督の着実さの賜物でもあろう。ブルース・リー世代の思い入れも濃厚に、アクション俳優の悲喜劇を誠実に描いた『イン・ザ・ヒーロー』ともども、今年は武監督の当たり年でもあった。