度重なる大怪我を克服し、通算100勝、重賞初制覇を飾った若い騎手のこれまでとこれから
師匠を介して“世界”と出会う
「狭いところが嫌なのか、消極的な競馬が目立つ。だから少しモマれて来た方が良い」
ちょうど1年前。2017年の夏、小崎憲はそう語っていた。
その言葉が耳に入っていたかは分からないが、直後に日本を発ったのは息子の小崎綾也。まだ若いが、年齢以上の経験を積んで来ている彼の半生を振り返ってみよう。
1995年5月13日生まれ。小学5年の時、父・憲が調教師試験に合格。ディープインパクトが活躍して競馬ブームだった事も後押しし、騎手になりたいと思った。
「すぐに乗馬を始めました。最初は“高さ”に驚いたけど、少しずつコントロールできるようになると楽しくなりました」
中学2年では、未来の騎手候補生のみが入れるジュニアチームに合格した。
「毎朝、学校へ通う前の5時半から馬に乗りました」
無事に競馬学校に入学。見習い生として栗東・村山明厩舎へ配属されると、大きな出来事が若者を待っていた。
「まだ騎手になっていない僕を、村山先生はアメリカやイギリス、フランスなどへ連れて行ってくださいました」
『海外で乗れるような騎手に育てたい』
師匠に言われたその言葉が、小崎の胸の中に残った。
度重なる怪我による長期の離脱
事件が起きたのは2014年3月。騎手デビューする直前の事だった。
調教で騎乗していた馬が急に頭を上げると、その後頭部が小崎の顔面を直撃した。火花が散ったと思った次の瞬間、違和感をおぼえた。
「右目で見えるモノが全て二重になりました。そのうち吐き気ももよおして、これは『ヤバい』と思いました」
すぐに病院に運ばれ精密検査を受けた。すると……。
「眼窩底を骨折している事が判明し、右目の下にプレートを入れる大手術をしました」
同期と同じスタートラインに立てなかった彼がようやくデビューしたのは4月も半ばを過ぎた後だった。4月19日に初騎乗を果たすと、その日のうちに父の管理馬で初勝利を挙げることができた。
「こんなに早く勝てると思っていなかったのですごく嬉しかったです」
最終的に1年目は38勝もできた。2年目も3月までに14勝。デビュー時の遅れを補って余りある活躍と思えたそんな時、再び悪夢に襲われた。
レース中、前の馬に乗りかけて落馬したのだ。
「自分のミスでした。落ちた瞬間、左足が激しく痛み、折れていると分かりました」
再び長い休養生活が待っていた。
そのリハビリ中に私は彼から連絡をもらっている。復帰はまだ先だが、体が動くようになった彼は海外の競馬を視察したいと言い、一緒にオーストラリアのメルボルンCを観戦しに行ったのだ。
その年の同レースは史上初めて女性騎手(M・ペイン)が優勝した。祝福される彼女に刺激を受け、騎手の良さを改めて感じた小崎は、帰国後、1カ月でターフに戻った。
しかし、16年6月には再び古傷が痛んだ。
「騎手人生を長く続けるためにも1度、しっかり本腰を入れて怪我を癒そうと考えました」
こうして再び戦列を離れると、治療に専念した。
海外修行を経て重賞制覇と通算100勝達成
休養中の小崎と、今度はヨーロッパで再会した。彼はマカヒキが挑戦した凱旋門賞や、イギリスのチャンピオンSを観戦しに現地を訪れた。復帰後に備え、自らに刺激を与え続けていたのだ。
2017年。再び競馬場に帰ってきた彼は約半年、日本で騎乗した後、ちょうど1年前の8月下旬に日本を発ち、オーストラリアへ飛んだ。当時の父の言葉が、冒頭に紹介した文言だ。
「デビュー4年目でしたけど、休んでばかりで実際に乗っていたのは1年半程度。圧倒的に足りない経験を補うつもりもあって、外国で乗る道を選択しました」
シドニー地区にあるローズヒルガーデン競馬場。ウィンクスを管理する事でも有名なクリス・ウォーラー調教師の下、彼は「毎朝3時半起床」の生活を4カ月過ごした。
「最初は毎日3鞍の調教をつけていた」との事だったが、私が現地を訪れた際は、7鞍も任されていた。そして、それだけでなく、競馬もコンスタントに乗せてもらえるほど、信頼を得ていたのだ。
そんな経験を積んで帰国。今年は年頭から日本の競馬に専念すると、初日にいきなり父の厩舎の馬で2勝を挙げて好ダッシュを決めた。
「3勝目のメジャーガラメキも父の馬でした。この馬は道中外を回し過ぎるとダメだけど、直線では外から他馬に来られないようにしないと伸びないタイプ。その通り乗って勝つ事が出来、父も喜んでくれました」
もっとも、父・憲からは叱られる事こそあれ、褒められる事は無いと言い、続ける。
「他厩舎の馬に乗っている時でも、消極的な競馬をすると叱られます」
7月22日、小崎はアスターペガサスに騎乗して函館2歳Sを優勝。自身初の重賞制覇を決めたが、その騎乗ぶりは、父を唸らせるモノだったのではないだろうか。直線入口で、窮屈な位置になったにも関わらず臆することなく馬群の間を割ると、最後は先に抜け出したラブミーファインをハナだけ差し切ってみせたのだ。
「いつもなら控えるくらい狭くなったけど、ここで行かないと勝てないと思い、賭けに出ました」
結果、ハナ差勝ちだったのだから、その賭けが正解だったわけだ。
更に遡ること1週、7月14日にはユアスイスイに騎乗してJRA通算100勝も記録した。小崎は言う。
「何度も怪我で休んだから、少し時間がかかってしまいました。でも、若い勢いだけで達成するよりも、多少なりとも経験を積んで達成出来た事は良かったと考えたいです。これからももっと中身の詰まったジョッキーになれるよう、海外も視野に入れて頑張っていきたいです!!」
そして、目指すべきジョッキー像を次のように語って〆た。
「僕の腕を見込んで『頼みたい』と思ってもらえるような騎手になりたいです」
ここまで決して順風満帆ではなかった。だからこそ、努力を続けられる忍耐力と自ら求めて得た経験が彼にはある。父や師匠の村山からも、身内だからではなく、“腕を見込んで”騎乗依頼される。そんな日が来るよう、応援したい。
(文中敬称略、写真提供=平松さとし)