子供を襲った不運や引退の危機を乗り越えて重賞を制した西田雄一郎騎手の、ガッツポーズに込められた意味
華々しくデビュー
1974年10月14日、長嶋茂雄の引退式当日に、西田は横浜で生を受けた。
小学2年の時に始めた野球は中学まで続けた。プロ野球選手に憧れたが、体が小さかったため高校で断念。そんな折り、面白い趣味を持つ人に出会った。
「同級生に競馬好きがいました。その影響で僕も興味を持ちました。オグリキャップが引退の花道を飾った伝説の有馬記念がこの年の暮れで、それに感動して、騎手になりたいと考えるようになりました」
運動神経には自信があったので競馬学校を受験すると合格。高校を2年で中退し、競馬学校に入学した。
95年にデビューすると関東の同期の中では最多の勝利数を記録。2年目にはサクラエイコウオーに騎乗して七夕賞を優勝し、いきなり重賞勝ちをマークした。その2年目、更に3年目と連続して26勝をあげると4年目の98年には29勝。確実に一流騎手への階段を上っているかと思えた。
挫折し、1度は騎手免許を返上
しかし、そんな矢先、自ら階段を踏み外してしまう。
自動車運転中の制限速度違反を犯し、出頭命令がくだされた。さらに、出頭日が来る前に再度同様の違反を犯したことで常習性を疑われ、起訴されてしまったのだ。
「自らの過ちで多くの人に迷惑をかけてしまいました」
反省した西田は騎手免許を返上。牧場で働く道を選択した。
「ノーザンファームが助けてくださり、山元トレセンで働かせてもらうことになりました」
当時、私は西田のお別れ会を都内で開き、一緒に飲んだ。その席で彼は言った。
「5年間は修行して、もっと大人になって帰ってきます」
結婚、そして騎手復帰
次に会うのは5年後と覚悟していた私に、彼から嬉しい報せが届いたのは2002年。牧場で知り合った女性と籍を入れるということで披露宴の招待状が届いたのだ。
こうして仙台で再会した彼と、次にまた会ったのは05年。彼が騎手としてカムバックを果たした時だった。
「牧場で働いたことで騎手時代には分からなかった彼等の努力を、身を持って知ることができました。そういった人達のためにも、以前のような迷惑は絶対にかけないようにして乗っていきます」
当時そう語った彼に、宣言通り“大人になって帰ってきた”と感じたのを覚えている。
思うように勝てなくても充実した騎手人生
しかし、競馬の世界は甘くない。戻ってきた西田に、質量ともに以前ほどの馬が集まらない。05年~07年は毎年1桁勝利に終わった。それでも彼の口から後ろ向きな発言が漏れることはなかった。当時、私は彼と草野球などしながらよく話したものだが、いつも笑顔で言っていた。
「1度は騎手免許を返上し、競馬に乗りたくても乗れない立場を経験しました。だからたとえ勝てなくても騎手でいられることの幸せを噛みしめながら乗っています」
フランスに“幸運は待たない者に訪れる”という諺があるが、西田の姿勢はまさにそれだった。08年に復帰後初めて2桁勝利数をマークすると、それからは毎年それなりに勝てるようになった。とくに新潟の直線芝1000メートルは西田の舞台と言われるほど好騎乗が目立ち、10年にはケイティラブを駆ってアイビスサマーダッシュを優勝。2年目に制した七夕賞以来の重賞勝利を飾ってみせた。
14年には待望の子宝にも恵まれた。生まれた直後の開催日に16番人気のリバティーホールで勝利。単勝569・4倍のJRA記録で子供の生誕を祝った。新しい家族が良い方に影響したのか15年の9月12日にはその年の14勝目。復帰後の年間最多勝を9月の時点で更新すると翌13日も勝って15勝目をあげた。
自らの怪我と子供に襲い掛かった不運で引退を考えた日々
ところが幸不幸は1枚のカードの表と裏のようなものだった。翌週の9月20日、1番人気馬に騎乗した彼は4コーナーで落馬。頸椎(けいつい)と胸椎骨折の大怪我を負ってしまった。
「結局、3カ月近く休むことになりました。次に大きな怪我を負った時は、騎手を辞める時かな……と考えました」
怪我から復帰した翌16年は、思うように勝てなかった。5月を終えても2勝。6月には追い打ちをかけるような悪い報せが届いた。
「まだ2歳の子供が重い病気と診断されてしまい、入院を余儀なくされることになりました」
半年を過ぎても子供の入院生活が続いていた12月。西田はまたも落馬による負傷をしてしまう。当時の彼の心境は彼自身、驚くものだったと言う。
「不利を受けて落とされる形で、いつもなら腹が立つのに、この時は不思議と清々しい気持ちになったんです。『あぁ、これは辞める時が来たのかな……』と思いました」
引退を翻意して出会った馬で重賞を制覇
ところが翼をもがれると飛びたくなるものである。
「自分が騎乗予定だった馬に他の騎手が乗っているのを観ていたら、その馬が勝ちそうになりました。その時、自然と『勝たないでくれ!!』と思いました。それで『あぁ、俺はまだ乗りたいんだ』と気付き、ひとまず2歳戦が始まるまでは騎手を続けようと考えを改めました」
約1カ月半の休養後、今年の1月下旬に復帰した。そして、2歳戦が始まる直前の4月29日。新潟競馬場で初めて手綱をとり、直線1000メートルの邁進特別を勝利したのがラインミーティアだった。
「その後、2度負けたけど、落鉄だったり、出遅れだったり、敗因がはっきりしていました。だからアイビスサマーダッシュもそんなに恥ずかしい競馬はしないと思っていました」
ところが結果は“恥ずかしい競馬はしない”どころではなかった。1度は完全に抜け出して勝つ態勢を作った1番人気馬フィドゥーシアを、ゴール寸前で差し切り。10年のケイティラブでこのレースを制して以来の重賞制覇を成し遂げた西田はゴールと同時に派手なガッツポーズを繰り返した。
「辞めないで良かったという思いとこの1年の苦悩が頭をよぎったことでガッツポーズが出ました」
「辞めたいと思ったのは相当、気分が落ち込んでいたからで、今はまた乗れる限り乗っていたい」と続ける西田。今、落とされたりしたら腹が立つだろうと笑って言う。辞める気など毛頭なくなった彼が、現在、最も楽しいと感じるのは「1年の入院を経て退院できた子供と遊ぶ時間」だそうだ。
(文中敬称略、撮影=平松さとし)