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島津氏や大友氏だけではなかった。九州の知られざる3人の名将

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(提供:イメージマート)

 世に知られざる逸材はいるが、それは戦国時代も同じだった。九州の武将といえば、島津氏や大友氏を思い浮かべるが、それ以外にも知られざる名将がいたので紹介することにしよう。

◎立花道雪

 猛将として名高い立花道雪は、知られざる武将の1人だろう。道雪は大友義鎮の家臣だったが、その高い軍事的能力が評価され、年寄に登用された。

 弘治3年(1557)以降、道雪は筑紫氏、秋月氏を討伐するため出陣し、一連の毛利氏との抗争に際しては、指揮官として軍勢を率いた。

 道雪には実子がなかったため、高橋鎮種の子・統虎を養子に迎えた。天正6年(1578)の耳川の戦いで、大友氏は島津氏に大敗を喫した。

 大友氏の弱体化に伴い、筑前に反乱が起こるなどしたので、道雪は鎮圧に奔走した。天正12年(1584)に肥前の龍造寺氏と戦うが、激しい抵抗に遭った。翌年、筑後に出陣中に病没した。

◎高橋紹運

 豊後大友氏の家臣の高橋紹運は、知られざる武将の1人だろう。紹運は大友氏の重臣・吉弘鑑理の次男として、天文17年(1548)に豊後筧城で誕生した。

 鎮理、鎮種と改名したが、紹運は法名である。豊後で誕生した紹運だったが、戦いの主たる舞台は、筑前をはじめとする九州北部だった。

 元亀元年(1570)、紹運は岩屋・宝満城の城督になり、筑前南部の支配を任された。天正12年(1584)に龍造寺氏が支配する筑前に侵攻し、子の統増に宝満城の守備を任せた。

 天正14年(1586)に島津氏が筑前に攻め込むと、紹運は降伏を拒絶し、徹底して抗戦した。結局、紹運は討ち死にしたが、その粘り強い戦いにより、島津氏は大きなダメージを受けたのである。

◎伊東義祐

 最後まで島津氏に徹底抗戦を貫いた伊東義祐は、知られざる武将の1人だろう。義祐は幼少時に外戚の福永氏、叔父の祐武らの専横により、苦しい立場にあった。

 義祐が家臣らの助力を得て権力基盤を確立し、家督を継いだのは天文5年(1536)のことだった。こうして伊東氏は、復活したのである。

 天文10年(1541)以降、義祐は一族の悲願だった、飫肥への侵攻を開始し、島津氏との全面対決に突入する。永禄5年(1563)に諸県の奪還に成功。その6年後には飫肥を回復し、伊東氏の全盛期を迎えたのである。

 しかし、元亀3年(1572)に木崎原の戦いで島津氏に大敗し、天正5年(1577)にも敗北を喫した。その後、義祐は大友氏を頼ったが、やがて伊予に出奔。堺で没したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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