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続く地震・火山噴火、千年前と似ている?

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
(写真:アフロ)

このところ地震や火山噴火が続いています。この状況は、千年ほど前の平安時代前期、貞観時代(859-877年)の前後に似ているという指摘があります。当時と現代を比較してみて、今後の備えについて考えてみましょう。

東北地方太平洋地震とよく似た貞観地震のメッセージ

869年に、東北地方太平洋沖地震と類似した貞観地震が発生しました。六国史の最後の国史・日本三大実録には、被災地・多賀城周辺の津波の様子が克明に記されています。ここには、津波犠牲者が1,000人にも上ると書かれています。ちなみに当時の日本の人口は現在の1/20程度、東日本大震災での多賀城市内(人口約6万人)での死者は188人でした。

この地震の後、京都では、被災地の地名を歌枕にした和歌が詠まれています。小倉百人一首の中にある2首の歌です。清原元輔が後拾遺和歌集で詠んだ「契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 浪越さじとは」と、二条院讃岐が千載和歌集で詠んだ「わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね 乾く間もなし」です。「末の松山」は浪が越さず、一方、「沖の石」は乾く間もないと記されています。現在ある「末の松山」と「沖の石」は写真のように近くにありますが、東日本大震災では、沖の石は2m程度津波に浸かり、末の松山には津波は達していませんでした。

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また、15年ほど前には、東北電力女川原子力発電所の技師が、仙台平野の津波堆積物を調べ、869年貞観地震による津波被害を突き止めていました。このことが女川原子力発電所での津波被害回避に繋がったとも言われています。

古文書や地中に貴重なメッセージが残されていることが分かります。

貞観地震前後の天変地異

貞観地震の前後は、天変地異の時代でした。863年に越中・越後で地震が発生、翌864年には富士山や阿蘇山が噴火し、868年には播磨・山城の地震が発生しました。貞観の富士の噴火でできたのが青木ヶ原樹海の溶岩です。この時期には、861年に福岡の直方での隕石落下、862年の新羅からの海賊来襲、866年の応天門の変や、疫病、干ばつ、水害などが続きました。このため、災いを治めるために御霊会が行われました。京都の祇園祭は、祇園で行われた御霊会を起源とするとも言われています。

貞観地震の後も、878年相模・武蔵、880年出雲、881年京都、886年千葉などで地震が相次ぎ、887年には南海トラフでの巨大地震(仁和地震)が発生しました。この間には、近畿地方で大飢饉も発生しています。

まさに、有史以来最も災害が多かった時期だと思われます。この時期に、浄土信仰が広がったことから。当時の社会の様子が窺えるように感じます。

歴史に学び将来への備えを怠らない

この20年、貞観時代と類似して、兵庫県南部地震、鳥取県西部地震、新潟県中越地震、能登半島地震、新潟県中越沖地震、東北地方太平洋沖地震が発生し、新燃岳、桜島、阿蘇山、口之永良部島などが噴火してきました。そして、今、首都直下地震や南海トラフ地震、富士山の噴火などが心配されています。五百年、千年に一度と言われる東北地方太平洋沖地震を受けて、千年前との類似性が気になります。たとえ科学的に説明できないとしても、過去にあったことは将来起こるかもしれないと思って、大災害の続発に備え、社会が破たんしないように、万全の準備をしておきたいと思います。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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