阪神・淡路大震災から27年 神戸の市街地はほとんど丸焼けになる可能性があった
冬型の気圧配置へ
日曜日に低気圧が日本海から北日本を通過し、北日本や北陸を中心に雪や雨の降る所が多く、所により雷を伴う見込みですが、気温は平年並みか平年より高くなっています。
しかし、低気圧が通過した週明けは西高東低の冬型の気圧配置が強まり、強い寒気が南下してくる見込みです(図1)。
17日(月)は、気温が下がっても平年並みです。
神戸の最低気温は4度、最高気温は10度の予報で、ほぼ晴れの天気予報です(図2)。
今から、27年前、平成7年(1995)1月17日の神戸は、西高東低の冬型の気圧配置でしたが、気温はもう少し低いものでした。
そんな中、阪神・淡路大震災を引き起こした兵庫県南部地震が発生しました。
阪神・淡路大震災の発生
平成7年(1995)1月17日05時46分の地震が発生した時に、私は神戸市中央区中山手通りにあった神戸海洋気象台(現在は神戸地方気象台となり移転)に隣接する宿舎で寝ていました。
神戸海洋気象台の予報課長として神戸に赴任していたからです。
上下動の揺れで目がさめた後、身体が横に叩きつけられる感じの揺れを感じました。
気象台は、神戸市沿岸部に細長く東西に延びる「震度7」の領域が切れているところにあり、「震度6強」でした(図3)。
当時の神戸海洋気象台予報課長は、大災害発生時には神戸海洋気象台災害対策副本部長になると決められていましたので、すぐに駆け付ける必要がありました。
地震と同時に停電となりましたが、隣接する気象台がすぐに予備電源に切り変わったので、その光が部屋に差し込んできました。
地震により多くのインフラが停止しましたが、気象台の予備発電機は最新型で、床にボルト付けしてあったため、大地震であってもすぐに機能しました。
気象台の光が部屋にきていたので、その光でただちに背広を着、ネクタイを掴み、ラジオを聞きながら気象台に駆けつけました。
津波の心配があるにしても、神戸ではこれほど大きな被害を受けるとは思わなかったため、私の職責として防災機関や報道機関等との対応が一日中あると考えたからです。
しかし、防災機関や報道機関等との対応はほとんどありませんでした。
それどころでない大災害が発生していたのです。
1月17日は満月で、月の入りが6時52分でしたが、地震発生当時は曇でした。
また、日の出も7時6分であるため、周囲は真っ暗でした。
地震発生後、「神戸の方向の空が地震の前に明るかった」と地震の予兆をかたる人が多くいましたが、大阪方面から神戸方向を見たとき、雲が薄ければ月明かりでぼんやりと明るくなっていると思いますが、神戸市では厚い雲で覆われていました。
神戸市長田町付近の火災
兵庫県南部地震発生後、6時すぎに高台にある神戸海洋気象台の南西約2~3キロメートル先の長田区付近の真っ暗闇の中にいくつかの火の手が見えました。
露場にあって使われていない地震で傾いた百葉箱ごしにです(タイトル画像参照)。
普段なら町の明かりがある長田区付近でしたが、消防車のサイレンの音も聞こえず、静寂の暗闇の中、火の勢いが強くなっているという不気味な状況でした。
夜が明けても、長田区付近の火事の勢いは衰えず、火元も増えているように見えました。煙は南から東の風によって左から右へ流れていました。
また、気象台の東側の灘区付近にもいくつかの火事の煙が見えました。
地震発生後、神戸海洋気象台に最初に中継が入ったのは地元のラジオ局であるAM神戸です。女性レポーターと技術スタッフの二人が機材を持って取材にきたのは、多分10時頃だったと思います。
台風時などに気象台から生中継をする場合は、1階の事務室から小型のアンテナを海側(三宮方面)に向けるだけで中継可能でしたが、いつも使う中継装置が故障ということで、六甲山系の麻耶山にアンテナを向けるため、倒れているロッカーを乗り越えて3階の廊下にたどりつき、そこから中継しました。
放送では地震の概況を簡単に説明し、建物が壊れかかっているので弱い余震でも被害が拡大する恐れがあるので注意すること、現在乾燥注意報が発表中であり火災が起き易くなっているので絶対に火を出さないようにと呼びかけました。
午後になると、風が北風に変わり、長田区付近の火災の煙の流れは右から左へと変わっています。
気象台付近には長田区付近の火災のものと思われる白い燃えかすが雪のように多数降ってきましたが、午前中に一時黒い燃えかすが降っていたときとは、あきらかに火災の状況が変化したと感じました。
図4は当時、気象庁で作成していたレーダーエコー合成図ですが、長田区のすぐ南に1時間に10ミリメートル以上の雨に相当する記号があります。
これは、雨が降っているのではなく、主として大火によって生じた煙や巻き上げられたほこりと思われます。
気象台では、観測も予報も、情報発表も通常通り行われていますが、1月17日の観測原簿の記事の欄には、「けむり」という珍しい天気記号(棒の上に波線がついているようなもの)が記されています(図5)。
これは、顕著な煙でないと記入しない天気記号で、17日の6時30分から18日2時30分まで観測されています。煙により、視程は8キロメートルに落ちていました。
この顕著な煙で、巻き上げられたほこりや燃えかす等が気象レーダーに映ったのです。
日本の大火は、これまで、ほとんどといっていいほど強風下での大火です。
阪神・淡路大震災の大火は、空気が乾燥しているといっても、風がそれほどでもない(最大風速が毎秒6.8メートル)のに、全国の1年間の火災焼失面積の4割に相当する面積が焼けています。
もし風が強ければ、関東大震災の10分の1程度といわれている延焼速度は、もっと早くなり、神戸の市街地がほとんど丸焼けになった可能性があったのです。
神戸海洋気象台が、震災の中で通常通りの業務を遂行できたのは、先人たちが日々の行動の中に積み上げてきた防災対策のおかげです。
前述した予備発電機と同様に、観測機器やデータ処理装置等の重要機器は、床にボルト付けられたり、紐で固定されていました。
一部の機器は、ボルトが外れたり、紐が切れて落下しましたが、地震の衝撃がボルトや紐で軽減されてからの落下であり、無傷か、簡単な修理で直りました。
綱渡りでしたが、綱から落ちないで渡ることができた経験です。
普段から、最悪の状態に備え、その対策を日々の行動に組み込んでおくことが、いざという時に役立ちます。
タイトル画像の出典:平成7年(1995)1月17日に筆者撮影。
図1、図5の出典:気象庁ホームページをもとに筆者作成。
図2の出典:気象庁ホームページ。
図3、図4の出典:饒村曜(平成8年(1996年))、防災担当者の見た阪神・淡路大震災、日本気象協会。