Go To迷走や医療崩壊の危機否定、「線の災害」に弱い危機管理体制が菅内閣の支持率を急速に押し下げる
菅内閣の内閣支持率がこれまでの内閣と比べてもハイペースで低下しています。読売新聞の調査(12月4〜6日実施)では、内閣支持率は前月から8ポイント減の61%。JNNの調査(12月5〜6日実施)では、同11.5ポイント減の55.3%、共同通信の調査(12月5〜6日実施)では、同12.7ポイント減の50.3%でした。組閣からまだ3ヶ月も経過していない中で、これだけ急速に支持率が低下している理由について、コロナ禍の対応も含めて考えていきたいと思います。
学者のエビデンスよりもポピュリズムを信じている
コロナ分科会の尾身会長は、衆議院厚生労働委員会の閉会中審査で「ステージ3ということは東京を含めて(Go To)一時停止すべきか」という質問に対し、「分科会はそう思っています」「分科会はステージ3相当の地域は、感染のこの状況を打開するには、Go Toを含めて人の動き、接触を控える時期だと思う」と発言しました。また、これに先だって東京都医師会の尾崎治夫会長は8日、「すべての年代で一度、人の移動を止めることが効果的と思っている」と発言するなど、専門家や有識者は、明確に人の動きを止める方向が必要だと主張しています。
一方、菅内閣の「Go To」見直し議論は、今日現在でもまだ結果が出ていません。現時点でも自治体レベルで「Go Toイート」の新規発行中止などといった対応は取られているものの、日本全域を対象とした「Go To」見直し議論は遅々として進んでいないのが現状です。旅行業界優遇とか経済優先などといった色々な理由が言われていますが、何より一部メディアでは「共同通信の情勢調査で回答者の48%が全国一律にGo To一時停止すべきと答えた」ことで、菅内閣が「Go To」停止の政策転換点(ターニングポイント)を迎えることになると報道されています。これが事実だとすれば、学者のエビデンスに基づく提言では動かず、ポピュリズムで政策決定をしているとも言い換えることができ、危機管理における意思決定としては大変危険なことだと言えます。
点の災害に強く、線の災害に弱い日本
日本は災害の多い国です。新型コロナウイルス感染症が100年前のスペイン風邪の大流行以来と比較されますが、古くは1923年の関東大震災があり、1995年の阪神淡路大震災や2011年の東日本大震災をはじめ、歴史的にも多くの地震や津波と戦ってきました。災害大国日本と言われるだけあって、台風や大雨洪水、豪雪、異常高温や異常低温といった天災との戦いは、ほぼ毎年といっていいほどです。
これらの災害の多くは、「点の災害」です。すなわち、災害事態は地震のように一瞬か、気象災害でも長くて数日程度のものがほとんどです。そのため、多くの天災に対応してきた日本では「防災」「避難救助」「復興」という3段階の災害プロセス(もしくは、これに「検証」を加えて4段階のプロセス)に対応する体制が確立しており、避難訓練や防災マップなどの形で私たちの日常にも垣間見ることができます。一方、先の自民党総裁選で「防災省」の親切を唱えた石破氏の主張のように、各プロセスにおける縦割り問題はまだ残っており、同時多発的な災害に十分に対応できる状況とは言えません。
一方、新型コロナウイルス感染症は「線の災害」と言えます。今年1月に国内初の感染者を覚知してから、まもなく1年が経とうとしていますが、感染拡大の状況は(波こそあるものの)変わりなく、決して収束期とは言えない状況です。ワクチンの開発など「終わり」を意識することはあっても、現実的にいつコロナが収束するかを高確度で予測することはまだ困難だと言えますし、「点の災害」で触れた政策決定のあり方や事後評価といった「検証」のプロセスにはまだ誰も踏み出そうとしません。そうすると、先述した「点の災害」における同時多発的な災害と同様で、縦割り問題も絡み、災害対応が不十分になりがちという問題が顕在化してきます。点の災害では「火事場の馬鹿力」とも呼ばれる精神論や、復興期のボランティア活動などといった善意に頼るシーンも多くみられますが、これだけ長期化する災害においても医療従事者やボランティアの「善意」に頼り続けることは困難だという認識は、第1波当初からあったのでしょうか。どうも現状のコロナ対応を見ている限り、「持続可能な対応」という観点が欠けていたようにも映ります。
政策決定は「すでに起こった未来」のために行うべき
筆者は、今年4月に東京大学でコロナ対策に関する政策決定のあり方やオープンデータのあり方について講義する機会がありました。上掲の「点の災害に強く、線の災害に弱い日本」もその講義の中で話した一つですが、もう一つ重要なこととして、「政策決定は「すでに起こった未来」のために行うべき」という見解についても述べたいと思います。
経営学者の故ピーター・F・ドラッカー氏は、「既に起こり、後戻りのないことであって、10年後、20年後に影響をもたらすことについて知ることには重大な意味がある。しかも、そのような、すでに起こった未来を明らかにし、備えることは可能である」(『経営論』)、「すでに起こった未来は、体系的に見つけることができる」(『創造する経営者』)という言葉を著書に残しています。たとえば「出生数の低下」という減少は、10年後の学校児童数の減少、20年後の労働力の減少、40年後の介護保険の担い手の減少をもたらします。
ある一定の事象が、「すでに起こった未来」として考えられる時、その事象から「すでに起こった未来」までの間に何が出来るかが、政策決定の重要なポイントです。たとえば新型コロナウイルス感染症においても、(原則として)検査を受けなければ陽性確定はせず、発症しなければ重症化せず、入院しなければICUや人工呼吸器管理にはなりません。先行指標のトレンドは、1週間や2週間後の医療需要に必ず響いてくるという意味で、「すでに起こった未来」を見つける方法なのですから、先手を打つ政策として先行指標から近い将来に起きるだろうと強く疑われる予測も含めた政策決定をしていく必要があります。
10日の参議院厚生労働委員会(閉会中審査)で、立憲民主党の石橋道宏参議院議員の「大臣、今医療崩壊の危機にひんしている自治体どれだけあると把握しているか」という質問に対し、田村憲久厚生労働大臣は「医療崩壊の危機という定義がはっきりどういうものなのかというのはなかなか難しいわけですが、危機に瀕しているかどうかは見方ということになると思います。」と答弁しました。ここまで述べてきたことをまとめれば、現状だけでなく先行指標も含めた「見方」をすれば、定義も何も、医療崩壊の危機についての「答え」はもはや誰の目にもはっきりしてくると思います。言葉の「定義」で逃げる霞ヶ関文学的表現は一般に内閣主意書に対する答弁書でも多用されるやり口ですが、国民一人一人が自らの生命や経済的不安を実生活に基づいて強く感じている最中にもこれらの表現を用いて丁寧な答弁をしないようでは、国民の内閣に対する信頼は早晩失われるのは当然の流れでしょう。
内閣支持率は今後どうなる
最後に今後の見通しです。菅内閣の支持率は、勢いこそ緩やかになるものの、低下基調が続くとみられます。年明けの通常国会前で50%前後にまで落ち込み、通常国会冒頭の政府4演説やその後の予算委員会答弁などの歯切れが悪ければ、一気に40%台まで急落する可能性もあるとみています。コロナ禍における政策を医療優先にするか経済優先にするかは日本だけでなく諸外国も同様の課題を抱えていることから、この点が焦点となるよりも、「情報の公開や丁寧な説明」「政府の意思決定の先見性」「首相らのリーダーシップ」が鍵になると思われます。特に「Go To」の見直しなど、これまでの政府の政策からの方針転換は説明責任も伴うことから、一時的には内閣支持率にも影響を与えることでしょう。記者会見の少なさが指摘されていましたが、来年以降も同様の状況が続けば、やはり支持率の低下が避けられないと思われます。
筆者は、次に確実に支持率が上昇傾向に持ち直すのは「ワクチン接種の開始」時以降だと考えています。コロナ禍の明確な終わりの時期(終期)を意識できるときが来れば、国民全体に蔓延している辟易や失望感から持ち直す機会になります。欧米ではワクチン接種がいよいよ開始されましたが、日本が欧米に次いで速やかにワクチン接種を開始可能にし、東京五輪開始前にコロナ禍の終わりを明確に提示できるようになれば、自ずと内閣支持率もバウンスするはずです。一方それが想定通りにできなければ、国民の不安は増幅する一方で、来年10月までには必ず迎えることになる次期衆院選は与党にとって大変苦しい選挙戦となるはずです。