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[高校野球]久々に聞いた馬淵節は、なかなかに意味深だ

楊順行スポーツライター
1992年夏の甲子園。松井秀喜(写真)のいた星稜は明徳義塾に敗れた(写真:岡沢克郎/アフロ)

 まだまだ駆け出し、勢いだけでしょう……取材に行ったわけではないけれど、新聞紙上で久しぶりに馬淵節を目にした。明徳義塾高の、馬淵史郎監督。東都大学野球2部で、息子・烈が率いる拓殖大が優勝を果たした。自身の母校でもある拓大の監督に息子が就任して2年目。神宮球場での今季最終戦を見るために、足を運んだという。新型コロナウイルスの影響で入れ替え戦は実施されず、1部昇格はお預けだが、

「秋のシーズンをやってもらえたのはありがたい。学生野球を最後までまっとうでき、有終の美を飾れたのは次につながるでしょう」

 と4年生を励ました。息子の采配に「勢いだけ」と辛口なのは、照れもあっただろう。思い出したことがある。

松井5敬遠は明徳の監督になって丸2年だった

 史郎監督自身も拓大時代、1年からショートのレギュラーになったが、ずっと東都の2部で1部経験はない。卒業後は故郷・愛媛の伊予銀行に就職が決まりかけていたが、野球部の休部が決まってご破算に。通常のサラリーマン生活を送っていたが、1980年、三瓶高時代の恩師・田内逸明氏に誘われて神戸の社会人野球・阿部企業のコーチ兼マネージャーに。82年に田内氏が急逝すると、コーチ陣で最年長の馬淵が監督となった。26歳だった。

 弱小だった阿部企業だが、86年には都市対抗本大会に出場してベスト8に入ると、秋の日本選手権では準優勝。もう義理は果たしたと監督の座を辞したが、故郷で宅配便の運転手をしているとき、やはり田内氏の教え子で当時の明徳義塾高・竹内茂夫氏に誘われて練習見学に出向いた。

「87年の5月13日だったかな。車一つ、手ぶらで明徳に来たら、"もう帰らんでええ。テレビも布団もユニフォームもあるから、明日から練習を手伝ってくれ"といわれてそのまま居ついた(笑)」

 そして、コーチから監督に就任するのが、90年8月だ。すると91、92年と連続して夏の甲子園に出場。どちらも1勝したことで、高校野球は簡単に勝てると思った。

 なにしろ社会人時代は、グラウンドの手配から始まり、大企業からは声もかけられなかった選手たちをコツコツと鍛えるしかなかったのだ。そこへいくと明徳には、西日本を中心として全国から優秀な素材が集まるし、全員が寮生活で、専用グラウンドもある。そういう環境で、しかも社会人仕込みの高度な野球をするのだから、「勝つのは簡単」とタカをくくるのもわかる。

 だが……92年夏の甲子園で1勝したその相手は、星稜(石川)。そう、松井秀喜を5敬遠した、あの試合である。

 つねづね「野球は確率のゲーム」と語る馬淵にとって、5敬遠はしごく当然の作戦だったが、これが思わぬ物議を醸した。馬淵はいう。

「5敬遠が汚い? それならバスターバントもピックオフプレーも汚いんか? そういう駆け引きがあるからこそ、力のない者でも対等に戦えるのが野球。力どおりに決まるんなら、最初から試合前のフリー打撃とシートノックで勝負を決めたらええ」

 そう語っていたことを思い出す。だが、その騒動を引きずるように明徳は、以後3年間は甲子園から遠ざかることになるのだ。その間馬淵は、2度辞表を提出している。

 そこで慰留されたからこそ、いまでは甲子園通算54勝で歴代4位の名物監督になったのだ。92年といえば、馬淵が高校野球の監督になって丸2年。それを思うと、息子を評した「駆け出し、勢いだけでしょう」という言葉が、なかなか意味深に聞こえるじゃないか。

 明徳はこの秋、四国大会でベスト4。来春のセンバツ出場が有望視されている。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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