G1の裏でひっそり勝利したある若いジョッキーのこれまでと、これからに懸ける物語
G1の裏開催でひっそりと勝利したある騎手の物語
G1・秋華賞で盛り上がっていた週末の話だ。前日の10月14日、新潟競馬場の第1レース。ローカル開催の土曜日、しかも第1レースという決して注目される舞台ではないここで、ひっそりと勝利した騎手がいる。
黒岩悠だ。
この勝利は彼にとって昨年の5月15日以来、実に1年5カ月ぶりに先頭で駆け抜けたゴール。
1日に4つも5つも勝ち、年間に200近く勝利する騎手もいる中、多くはない勝ち鞍。しかし彼は一つの想いを胸にモチベーションを保ち、騎手としての仕事に専念している。
そんな彼の熱き想いを今回は紹介しよう。
花開きかけたジョッキー人生。その矢先にあった悲しき分岐点
1983年10月26日生まれだから間も無く34回目の誕生日を迎えることになる。高知県で父・洋右、母・美恵子の下、3つ上の姉と育てられた。
調教師ならぬ調理師の父に高知競馬へ連れて行ってもらったのを機に競馬に興味を抱き、中学の頃には騎手を目指した。
「野球をしていたけど身体が小さかったのでプロは諦めました。騎手を目指してからは乗馬を始め、給食を食べないで減量したりしました」
競馬学校入学後は馬乗りに苦戦したが「せっかく当たった宝くじを捨てるような真似はできない」と考え、辞めようとは思わなかった。
2002年、栗東・吉岡八郎厩舎からデビュー。初勝利は7月になってからで最初の年は2勝に終わった。
しかし、障害レースにも積極的に乗っていたので2年目に飛躍。障害の4勝を含む17勝を挙げた。
3年目も年明けから平地と障害の両方で勝利し、波に乗ってきたかと思えた。
ところが好事魔多し。
1月25日の京都競馬。落馬して競走を中止。その際、骨盤骨折の大怪我を負った。
「今、思うとこれが運命の分かれ道になったかもしれません」
半年に及ぶ長期休養を余儀なくされた。7月24日に復帰したが、約1年後の05年9月にはまた骨折。次に復帰できた06年1月には減量の特典が無くなっていた。
「当然、乗り鞍が激減して、勝てなくなりました」
09、10年はいずれも未勝利に終わってしまい、「さすがに引退も頭を過ぎりました」と述懐する。
苦しい時に助けてもらった調教師の下、歴史的名馬にたずさわるも、騎手としての願いは忘れず
そんな悩める黒岩をサポートしてくれる調教師もいた。
「坂口正則先生や清水久詞先生が声をかけてくださり、調教や競馬で乗せてくださいました」
清水厩舎で調教をつけた馬がやがて出世。札幌記念など重賞を4勝もした。さらに香港カップでも2着と健闘。トウケイヘイローだった。
この功績ですっかり信頼を得た黒岩は、その後も清水厩舎のトップホースの調教を任されることになる。
こうして出会ったのがキタサンブラックだった。
ジャパンCや春の天皇賞などを制し、16年のJRA賞で年度代表馬に選出された名馬の普段の調教に跨っているのが黒岩なのだ。
「G1馬の背中を知れたことは大きな財産です」
そう語る彼だが、同時に次のようにも言う。
「でも僕は騎手ですからね。競馬場で輝ける日を忘れたわけではありません」
とはいえ現実問題としてなかなか勝てず、それどころか競馬に乗ることさえままならない日も多い。そんな中、モチベーションを維持し続けるのは大変であろうことは容易に察しがつく。そのあたりを問うと、彼は真剣な眼差しで、口を開いた。
「正直、落ち込む日もあります。でも暗くしていても乗り数が増えるわけではありません。明るく振る舞っていれば誰かの目に留まって乗せてくれるかも知れません。そうすればいつか凄い馬に巡り会えるかも知れない。そういう想いで毎日、明るくしながら乗るようにしています」
1年5カ月ぶりの勝利となったレースでコンビを組んだ馬の名はカタヨクノテンシだったが、彼自身、「翼の一つや二つもがれても、自ら鞭を置く気はない」という強い意志を持っているのだろう。
「腐らず明るくやっていれば、いつか重賞を勝てるような馬を任される日が来ることを信じています!!」
そう話し終えた後にみせた笑顔と少し潤んだ瞳に彼の熱き想いと矜持を感じることができた。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)