不登校は子どもの責任ではない、子どもたちの「生き生き」を奪っているのは誰なのか
いわゆる不登校など、学校が「問題あり」とする子どもたちが増えているという。学校生活に馴染めないでいる子も多いという。それを、子どもたちの責任にしたがる傾向も強い。しかし「生き生き」を失っているのは、子どもたち自身が責めを負うべきことなのだろうか。子どもたちの「生き生き」を奪っているのは子どもたちの責任ではない、と「いもいも教室」の「森の教室」を見学してみて、あらためて強く感じた。
進学有名校の教員を辞めて始めたこと
進学校として知られる神奈川県の栄光学園中学高等学校で数学を教えていた井本陽久さんが、同校を辞めて(現在は非常勤講師)始めたのが「いもいも教室」だ。栄光学園時代から井本さんの授業はユニークなもので、教科書を使わず、主に手作りのプリントが使われ、「教える」のではなく「子どもたちに考えさせる」ことに主眼がおかれていた。
栄光学園での授業を見学させてもらったことがあるが、とにかく子どもたちが考えに考えることを求められるものだった。黒板を眺めてジッとしている子など1人もいず、プリントに向って一心に考え、クラスメイトと意見を交換し、発表する。その合間には、「その考え方、スゲェーな」とか「それは、オレも考えつかなかったわ」という井本さんの声も飛ぶ。教室全体が、生き生きしているのだ。
その生き生きを、栄光学園だけでなく、もっと広めたいとの思いから井本さんが始めたのが、「いもいも教室」である。数学だけを教える教室ではない。もちろん数学を教えるプログラムもあるが、ほかにもいろいろなプログラムが組まれている。
どの子が不登校なんですか?
今回見学させてもらったのは、プログラムのひとつで、スタートしたばかりの「森の教室」だった。この日の会場となったのは、東京都八王子市にある「夕やけ小やけふれあいの里」だ。JR中央線の高尾駅から、さらにバスで30分ほど山を登っていったところにあり、東京都内とはおもえない自然豊かなロケーションである。
これが普通の学校行事ならびっしりとスケジュールが決められていたり、着くなり教員が細々と注意を与えたりするのだろうが、そういうことは森の教室にはいっさいない。大まかな「やれること」は示されるが、「やらなければならないこと」はない。
入園すると、子どもたちはそれぞれの楽しみ方をみつけていく。遊具で遊びはじめる子もいれば、飼われているヤギに目を奪われている子もいる。園内の木に巣をかけているクモに夢中になっている子たちもいる。コンクリート地面にチョークで絵を描ける場所もあるのだが、子どもたちはあまり興味がなさそうで、気がつけば、夢中になって描いているのは付添のはずの親や講師たちだけといったことになっていた。
この日のメインイベントは川遊びだったが、前日まで降りつづいた雨のせいで水量も多く流れも早くなっている。そのため、残念ながら断念。しかし、子どもたちは少しもめげない。水遊び場をみつけると、そこで遊びはじめた。普段なら流れになっているとおもわれるのだが、その日は流れていなかった。ちょっと小さめの池と言えば聞こえがいいが、水たまりだ。
最初は「冷たい」とか言っていたが子どもたちが、水の感触を楽しむように水にはいって歩きまわり、すぐに水かけっこがはじまった。帽子に水をいれて、濡れるのが嫌だと逃げ回る講師を追いかけまわしている子もいる。みんなが笑い転げ、走りまわっている。そこには大人が注意したり、指図する神経質な声はいっさいない。
「不登校っぽい子もいるけど、そうは見えませんよね。学校に行くと、教室の隅でポツンとしている子もいるんですよ」と、井本さんが言った。それを聞いて、意外な感じだった。そう言われても、どの子が不登校なのか、さっぱり分からなかったからだ。それくらい、どの子も生き生きと遊びまわっている。
森の教室は不登校の子たちだけを対象としているわけではない。どんな子でも生き生きできる場として、森の教室がある。
大勢のなかが苦手な子が、みんなの真ん中で笑っていた
そのうち焚き火をやることになって、講師の土屋敦さんが火打ち石をとりだして、やってみせる。「はい、集まって。こうやって、やります。よく見て」なんてことを土屋さんは言わない。ちょっとやってみせて、あとは放っておく。
子どもたちは、いっしょうけんめい火打ち石で火をつけようとするが、なかなかうまくいかない。金具で火打ち石を打ち擦るようにして火花をださなければならないのだが、叩きつけたり、横から打ってみたりと子どもたちは悪戦苦闘を続ける。うまくいかないからといって、土屋さんが細かく教えることもない。ただ、訊かれたら答える。叩きすぎて火打石が割れてしまったりするのだが、それでも簡単には手を貸さない。もちろん、石を割ったからといって、注意したり、怒るなんてこともない。それぞれが、勝手に熱中している。
それでも、何人かが火をつけるのに成功した。しかし前日の雨のために種火にするための小枝や葉っぱが湿ってしまっていて、なかなか炎にまで成長させられない。学校行事なら「時間がないから、これで火をつけます」と教員がライターかマッチをとりだすかもしれないが、「つかなかったらつかなかったで、それも経験だから」と土屋さんは涼しい顔をしている。
飽きてしまって、鬼ごっこをはじめた子どもたちもいた。炎にするのではなく、ただ火打ち石で火花をだすことに夢中になっている子もいる。そんななかで、炎にすることに熱中している男の子がいた。フーフーと息を吹き込んだり、小枝や葉っぱの位置を工夫してみたり、紙をつっこんでみたり、いろいろやっている。
そのうち、炎になってきた。今日は無理だろうなと大人たちもおもっていたのだが、その子がみごとに焚き火に育ててしまった。「すごいね」と言いながら、遊んでいた子たちも火のそばに寄ってくる。男の子は満足げだった。
「最初は『火をつけるのなんか嫌だ』って言ってたんだけどね」と、講師の土屋さん。「あの子は大勢が集まるところが苦手で、それで学校生活もうまくいっていない」と井本さんが教えてくれた。そんなことは嘘のように、みんなの真ん中で男の子は笑っていた。生き生きしていた。
不登校になっているという子も、問題があると学校にはおもわれている子も、みんなが生き生きしている。生き生きできないのは、子どもだけの責任ではない。子どもから生き生きを奪ってしまっているのは、学校や大人の側ではないのか。そのことを、正面から問い直してみる必要があるのではないだろうか。
<次回に続く>