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不幸じゃなかった「不幸なひとたち」ーイラクで暮らすある2家族の話

伊藤めぐみドキュメンタリー・ディレクター
イスラム国から解放されたモスル西岸(2017年8月)写真、動画はすべて筆者撮影

泣き叫んで天を仰ぐ女性、虚な瞳でこちらを見つめる子ども、包帯から血が滲み出た負傷者…戦争や貧困で苦しむ人たちといってイメージするのはそんな人々の姿だろうか。争いや貧しさに心を痛める。なぜこうなってしまったのか、原因を考えようとする。様々な分析や解説を読んだり聞いたりすることはできる。しかしいつまで経っても終わらない争いに感覚が麻痺してくる。彼らはもともと不幸になる運命で、そういう星の下に生まれたんじゃないかとさえ思えてくる。不幸な人は、もともと不幸で、もうどうしたって不幸に違いない、と・・・。

オマルさんの貫禄

トルコで暮らす街を案内してくれるオマルさん
トルコで暮らす街を案内してくれるオマルさん

でも、イラクは少なくとももともと貧しいところでも、戦火が絶えないところでもなかった。

オマルさんと私が初めて会ったのは2013年、イスラム国が支配を広げる前のイラクで通訳として知り合った。当時も治安はよくなかったものの、人々の間にこれからよい方向へ向かっていくのではというかすかな希望のようなものがあった。オマルさんは、通訳の仕事中、自分の役目を忘れて熱く自分の意見を語り始めるので、周囲の人から怒られてしまうという、そんなマイペースな憎めない感じの人だった。

2015年の秋にトルコで2年ぶりに会ったオマルさんはげっそりと痩せていた。オマルさんはイスラム国と政府軍との戦闘から逃れトルコで妻と4人の子どもと避難生活をしていた。

「トルコにようこそ。僕はここにできるだけ馴染もうと思ってね、トルコ語を覚えようとしているんだ」

この数年いろんな経験をしてきたからか、皮肉にもオマルさんからはお茶目な感じは減って、貫禄のようなものが出ていた。

イスラム国がイラクでの支配を始めたのは2014年の春。その1年後、2015年3月、オマルさんが住んでいたイラク中部の街ラマディで、イスラム国とイラク軍が街を半分に陣取って戦闘を始めた。4月になると戦闘は激しさを増し、ある日、買い物に出掛けていたオマルさんのところに妻から電話がかかってきた。

「家の近くで銃撃が始まったから今は帰って来ないで」

しかしオマルさんは居ても立ってもいられず帰宅する。オマルさんが家に戻ると、イラク軍兵士が家に押し入って来た。

「イスラム国の戦闘員はいるのか、お前は武器を持っているのか」

兵士は問いただし、兵士は理由もなくオマルさんの肩と背中を持っていた武器で酷く殴った。

その日の夜は、イラク軍のヘリコプターとイスラム国側が放つロケット砲の音が響き渡っていた。イラク軍や警察は住民の脱出を禁止して、街から逃げずに一緒に戦うよう呼びかけるアナウンスをずっと流していた。しかしオマルさんにとっては、「イスラム国も恐ろしいし、でもイラク軍も信用もできない」。警察のアナウンスが消えた午前5時30分、この瞬間を狙ってオマルさん一家は130キロ先にある首都バグダッドへと出発する。この時、イラク軍はイスラム国に恐れをなし逃げ出していたのだ。

まだ戦闘が続いている地域もあり砲弾が飛び交う中をくぐり抜けなければならず、オマルさんは怯える妻に落ち着いてくれと何度も頼みながら避難した。首都バグダッドに入る橋の手前でオマルさんたち避難民はイラク軍に行く手を阻まれた。イスラム国のメンバーが紛れ込んでいるかもしれないというのがイラク軍側の理由だ。多くの避難者がイスラム国から逃げて来たにもかかわらず、イスラム国の関係者だと疑われて進めず、戻ることもできず、何もない荒地に放置された。橋を通れるのは賄賂を渡せるお金を持っている人だけ。砂漠の中を2晩、オマルさん一家は過ごし、ようやく通ることができた。オマルさん一家はバグダッドで30日ほど隠れて過ごし、トルコへ飛んだ。イラク戦争後、宗派対立が激化したイラクでは、シーア派が多数のバグダッドでは、スンニ派のオマルさんは安心して暮らせないからだ。

「これが私の博士論文」

イラク人が多く暮らすトルコ・サカリヤ
イラク人が多く暮らすトルコ・サカリヤ

再会したトルコの街で、オマルさんは私にそんな話をポツリポツリと聞かせてくれた。彼のトルコの家に泊めてもらった夜、オマルさんは真っ黒い大きなショルダーバッグを持って来て言った。

「ねえ、避難した時に家から持ってきたものを見せてあげるよ」

取り出したのは4センチほどある重そうな分厚い紙の束だった。

「これ、私の博士論文なんだ」

「なんでこんな…」という言葉を急いで飲み込んだ。戦争で逃げる時にこんな論文の紙の束なんて「腹の足し」にもならないんじゃないか。オマルさんの博士論文はコーランをフランス語に訳した時の言語的置き換えというなんとも難解そうなテーマだ。

それでも両手に持てるだけの荷物しか持って逃げられない状況でオマルさんが選んだのが論文だった。もちろん、避難先で新しい仕事を見つけるのに論文があれば経歴証明になり有利になるという意味もあるのだと思う。でもイラクで初めてあった時、ちょうどその論文の執筆中で、嬉しそうに(私が理解しているかどうかなんて気にもせず!)私に解説してくれたのを覚えている。論文はオマルさんにとっての誇りであり、自分の片割れみたいなものなのかもしれない。家族に支えられながら大学院に通い、寝る間を惜しんで、必死になって書いた論文なのだろう。戦争でボロボロになり、これまでの自分を否定されそうな中、博士論文は自分が自分であることを再確認させてくれるもののように思えた。

オマルさんは大事そうに再び論文をカバンの中にしまった。

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うつ病になる避難民

話を聞かせてくれたアブ・ムハンマド
話を聞かせてくれたアブ・ムハンマド

アブ・ムハンマドはうつ状態だった。

「死を待つだけ。あとは死ぬのを待つだけの生活だ」

アブ・ムハンマド(ムハンマドのお父さんの意味)はでっぷりとしたお腹に似合わず、精悍な顔つきをしている。路面店を営み、元軍人でもある。こんなたくましい容貌の人から「死にたい」という言葉が出ることに私は驚いた。彼は終始、イライラし、インタビューされるのは気が進まないのは明らかだった。

2017年春、モスル出身のアブ・ムハンマドは妻と4人の子どもとイラクのクルド自治区アルビルで避難生活をしていた。2016年10月にイラク軍主導で、イスラム国からイラク第二の都市モスルを奪還する作戦が始まった。8ヶ月にも及ぶ軍事作戦の末、去年7月に3年間続いたイスラム国の支配が終わりを告げたが、作戦の途中、多くの避難民が近郊のアルビルに逃れて来た。アブ・ムハンマド一家も避難してきた家族のうちの1つだった。

アブ・ムハンマドがこれからインタビューされることに苛立っているのは明らかながらも、彼のもともとの紳士的で丁寧な性格からだろう、気持ちを落ち着かせようとタバコを取り出し、「吸ってもいいかい?」とわざわざ聞いてくれた。そして火をつけ、話し始めた。

イスラム国の支配下でアブ・ムハンマド一家は約2年半を生き延びた。2年半の間、支配地域を抜け出すのは簡単ではなく、たとえ逃げだせたとしても家もない、つてもない外の街での生活には日々の糧を得られるのか、不安しかない。しかし、イスラム国の支配下では物資が不足し、加えて、軍事作戦開始で物流の状況はさらに悪化し人々は飢えに苦しんだ。

「空腹で、寒くて、もう何もなかったから」

2016年12月になるとイラク軍が自分たちの住んでいる近くの地区まで戦闘に勝利し、陣地を進めて来ていることを知り、一家は助けを求めて支配地域から逃げ出すことを決意した。しかしそれは文字通り命がけの避難だった。イスラム国の人間に逃亡が知られれば殺されるのは必然。逃げ道に仕掛爆弾を設置してまで、イスラム国は住民の脱出を防ごうとしていた。

そしてこの一家も、その罠にかかる。避難の道中に爆弾に遭遇することとなった。17歳の息子は即死、娘の腹部からは内臓が溢れ出し、10か月の息子は頭がぱっくりと割れる負傷を負った。

「脳がこぼれ落ちてきたから手で押さえたんだ」

アブ・ムハンマドはゆっくりと手を持ち上げてその様子を再現しながら説明した。アブ・ムハンマド自身もその時、爆発の威力で意識は朦朧としていた。あと20メートル行けば、イラク軍のいる安全な場所がある。しかしそこに行くまでにはイスラム国のスナイパーが狙撃してくる中を通り抜ける必要がある。イラク軍はイスラム国のスナイパーを恐れて助けてはくれなかった。アブ・ムハンマドは怪我をした子どもたちを一人一人かついで狙撃される中を走った。一人届けては、またスナイパーがいる中を戻り、また一人子どもをかついでいく。イスラム国のスナイパーは50発は撃って来たことを記憶している。アブ・ムハンマドは『自分は元軍人。自分は強い』と自らに言い聞かせて軍で昔、習った狙撃を回避する走り方で3度、行き来した。

お盆で運ばれる水

話し終わると、アブ・ムハンマドはぐったりとしていた。避難民の中には、精神安定剤を飲む人も多い。アブ・ムハンマドも気持ちを落ち着けるためにコーランを読んだり、スマートフォンで聴いたりするそうだ。妻は苛立っていた。

「何度も取材を受けた。でも生活はよくならないのはなぜなの」

取材者である私に腹を立てながらも、亡くなった17歳の息子の写真が5、6歳の時の幼い時の写真から、最近の写真まで、彼女が育ててきたその過程を何枚も何枚も見せてくれた。妻の目からはポロポロと涙がこぼれた。

15歳の娘が一番、冷静に見えた。黒髪のおさげ、金色のピアスが耳元で揺れていてとても綺麗な子だった。ベッドに横になってずっと優しい笑みを浮かべてこちらをみている。彼女は18回の手術を受け、この先、歩けるかどうかわからないと言われていた。兄を失い、両親も嘆き悲しんでいる。苦しんでいる親に自分は何もしてあげられない。むしろ心配をかけている。でもだからこそ彼女は私たちに微笑むことで親に心配をかけまいとしていたのかもしれない。

2週間後に彼ら一家を再び訪ねた。アブ・ムハンマドは仕事がみつかったそうで、その表情は少し明るくなっていた。5歳くらいの小さい娘がお盆に水のコップを乗せて私たちに運んで来てくれた。きっと「お客さんが来た時はこうするんだよ」と親は子どもに教えているのだろう。些細なことなのだけれど、ああこの人たちはずっと不幸じゃなかったんだなと感じる。幸せだった時を知っているからこそ、失った時の痛みは強い。でも幸せだった時間が今の時間を支えているのかもしれない。

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現在、オマルさんは故郷のラマディに戻った。末娘が病気になり、オマルさん自身も体調を崩している。アブ・ムハンマドの妻と娘は時々、父親の携帯からかわいいスタンプつきでメッセージを送ってくれる。娘は歩けるようにはなったけれどまだ手術が必要で今も介助が必要なため、学校には行けず外出することはほとんどないそうだ。たわいもないメッセージのやりとりの後、娘が突然、「手術が不安なんだ」とつぶやく。

日本でかろうじて伝えられる中東のニュースが、そこで暮らす人たちの日常に不安となって、痛みとなって、怒りとなってあらわれる。個人の話を書き連ねても、事態がかわるわけではないと憂鬱な気持ちにもなる。でも「不幸でいるものか」と、「”不幸でも仕方がない人たち”だとみなされてたまるものか」と、そんな声はずっと発せられている。

イスラム国解放直後と現在のモスルの状況の動画です

(一部取材協力:イラクホープネットワーク)

ドキュメンタリー・ディレクター

1985年三重県出身。2011年東京大学大学院修士課程修了。テレビ番組制作会社に入社し、テレビ・ドキュメンタリーの制作を行う。2013年にドキュメンタリー映画『ファルージャ ~イラク戦争 日本人人質事件…そして~』を監督。第一回山本美香記念国際ジャーナリスト賞、第十四回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞を受賞。その他、ベトナム戦争や人道支援における物流などについてのドキュメンタリーをNHKや民放などでも制作。2018年には『命の巨大倉庫』でATP奨励賞受賞。現在、フリーランス。イラク・クルド人自治区クルディスタン・ハウレル大学大学院修士課程に留学中。

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