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戦場のような光景、レバノン・ベイルート爆発事故後の街を歩く

伊藤めぐみドキュメンタリー・ディレクター
被害の大きかったベイルート・ジュマイゼ地区

夕方6時頃、中東レバノンの首都、ベイルートの滞在先近くで小さな地震のような揺れを感じた。数秒後、ドンという地面に叩きつけられるような感覚を覚えた。大勢の人が慌てて外に出てきており、見上げると空には巨大なピンクの雲があらわれていた。それがこの日、5キロ離れたベイルートの港で起きた爆発事故だと理解した時には1時間近く経っていた。

8月6日現在で死者157人、負傷者5千人、家を失った人は30万人と言われている。ベイルートの街の半分が被害を受けた。

■現場の様子

爆発のあった港と倉庫群
爆発のあった港と倉庫群

爆発の翌日、朝9時頃に事故現場の近くのベイルートの中心地、殉教者広場に向かった。あちこちからガラスを掃くシャラシャラといった音が聞こえてきた。この街をこよなく愛するベイルートの人たちはすでに片付けに取り掛かっていたのだ。ベイルートのシンボルの1つ、アル・アミン・モスク、通称ブルーモスクは天井部分が一部、大きく崩れていた。

「何か手伝うことはありませんか?」

若いカップルが、片付け作業を行うモスク関係者に声をかけると、もう手伝いに来てくれている人たちがいるから大丈夫だとお礼を言っていた。

それとは対照的に、爆発のあった港の入り口付近には、憔悴しきった顔の人たちが座り込んでいた。行方不明の家族の捜索を待つ人たちだ。建物の下敷きとなった人たちがまだ大勢いると見られるのだ。捜索をしているという軍の車両と救急車が1日中、数分おきに出入りし、サイレン音が鳴り響いていた。

港の入り口で行方不明になった家族を待つ人たち
港の入り口で行方不明になった家族を待つ人たち

港の次に被害の大きかったジュマイゼ地区では、おびただしい数のガラスが散らばり、窓枠などのアルミ素材や樹木が歩道を遮っていた。ここはキリスト教徒の多い地区で、洒落たバーなどが立ち並んでいた。

美しい街並みは破壊されてしまった
美しい街並みは破壊されてしまった

ここでは放心した様子で、破壊された家や店の前で椅子に座っている人たちを目にした。中東では家の前で腰掛けて涼むということはよくある。でもこの時は、目を潤ませた年配者や、身体中に傷を負った女性がただただ遠くを見つめていた。話を聞きたいと声をかけると、「もう疲れた」と静かに答えた。

ベランダの男性は後ほど若者たちが部屋まで上がって安全な場所まで移動させていた
ベランダの男性は後ほど若者たちが部屋まで上がって安全な場所まで移動させていた

何人かに声をかけ続けると、片付け作業をする若者が話を聞かせてくれた。

「いつもどおり夕方6時頃に仕事を終えて、車で家へ帰る途中だったんです。最初は低い音がしました。2回目の衝撃の時には車も壊れて何が起きたのかわかりませんでした。すぐそこの道に隠れていました。道路は歩ける状態じゃないし、血だらけの人たちばかりでした」

コンクリートの破片が散乱した飲食店で働く別の若者はこう語った。

「8月11日に開店させる店の準備していたんです。爆発した瞬間に、私たちは放り出されたんです。何が何だかわからないうちに。最初は爆弾かと思いました」 

この国が直面しているのはこの爆発だけではない。すでにレバノン経済は瀕死の状態にあった。昨年の10月からレバノンでは反政府抗議デモが行われ、経済活動の多くがストップしていた。長年行ってきた騙し騙しの経済運営が、デモをきっかけにあらわになり、破綻したのだ。そこへコロナ禍である。レバノンの貨幣価値は80%下がり、物価は大幅に上昇した。

レバノンの人口の半分が援助なしには生きていけない、また50万人の子どもが今後、飢えに陥る可能性があるとの分析もある。先ほどの若者は、

「レバノン経済は崩壊しているけれど、でもレバノンで働き続けようと思っていた。レバノンを出たくなかったから。だけど今は、どうしたらいいのかわからない。レバノンにこれ以上留まる価値があるのか、修復してやり直すことができるのかわからない。そんな余裕なんて誰ももうない」

被害にあった飲食店の内部
被害にあった飲食店の内部

重要な経済拠点の1つである港は当分、通常通りには動かないだろう。港以外で被害のあった地区は、中間層や富裕層が多く住む場所だ。人々に家や店舗を再建するお金はもうない。彼らが限界となれば、貧困層が立ちゆかなくなるのは目に見えている。

レバノンは150万人のシリア難民を抱え、様々な権利が制限されたパレスチナ難民も住んでいる。港や飲食店街で働く難民も多かっただろう。

鉄くずを集めに子どもや女性が破壊された街の中を歩いていた。貧困にあえぐ彼らはこのような爆発事故も、収入を得るチャンスとして利用せざるをえないのだ。アフリカ系の労働者の姿もよく見かけた。援助関係者によると頼る人のいない彼らは路上で寝泊まりしているという。

また港にあった小麦などの穀物の倉庫も破壊され、残された穀物はわずかだと経済、貿易相は発表している。

世界銀行によればこの街のインフラや物理的ダメージの復興に46億ドル必要とも言われている。

売れるアルミや鉄を探す子どもたち
売れるアルミや鉄を探す子どもたち

■全国から集まったボランティア

レバノン各地から集まったボランティアたち
レバノン各地から集まったボランティアたち

それでも事故翌日のベイルートにはかすかな優しさも見えた。レバノン各地から大勢のボランティアが集まったのだ。若者たちがデッキブラシやスコップを片手に通りを歩き、通りに家や店を持つ人たちに支援が必要かを訪ね、ガラスやアルミ枠の除去を手伝っていた。

黙々と、道路に散らばったガラスを掃いていたそれぞれ黒とピンクのヒジャーブをした若い女性の2人組に声をかけた。

「私の家はここから1時間くらいで特に被害はありませんでした。でも何かしたくてここにやってきたんです」

友人同士、地域のグループなどで、時にはバスをチャーターして遠方からやってきていた。Tシャツ姿の20代、30代の若者が多かったが、普段なら支援対象になりそうなボロボロの服を着た子どもや、さらに上の世代も手伝いに来ていた。

ところどころにはテントが設置され、被災した人たちとボランティア向けに食料や生活物資の配給を行っていた。外国人の取材者である私にも、時に「水、いる?」と声をかけてくれる人たちがいた。すでにレバノンは経済的には限界だったはずだ。それでもいくらかのお金を絞り出して、支援を行なっているのである。

皮肉なことに街には活気があふれていた。

しかし人々の寛容さにも限界がくるだろう。

対照的なのは治安のためあちこちに配備された軍。軍はレバノンの人々の間では比較的好意的に受け止められており、命令を発しない上層部の判断なのであろうが、しかし特に何をするでもないその様子にこの国の指揮系統の末路をみた気がした。

6日夜には国会近くで小規模の抗議行動が行われた。事故現場から1キロも離れていない場所だが、治安部隊は催涙ガスを使用したという。

■原因と腐敗した政府への憤り

爆発の原因は、すでに各所で報じられているが、港の格納庫に6年以上置かれたままになっていた硝酸アンモニウム2,750トンが原因だという。硝酸アンモニウムは肥料や爆薬の原料として使われるものだ。

責任を巡って港関係者16人が拘束されるなどしている。現場に近い人間に責任をなすりつけて終幕をはかることが懸念される。しかし、同時にこの港は「アリ・ババと40人の盗賊の洞窟」と呼ばれ、支払われるべき港の関税は国に収められず、賄賂が横行しているとも言われるいわくつきの場所でもある。

原因については事故であるというのが大方の見方だ。しかし、背後に政治が関係していると考える人々の噂は絶えない。一番、多く聞かれたのはイスラエルとヒズボラに関係した攻撃というものだった。

「レバノンはずっと1975年から1990年まで内戦をしてきました。民兵組織がいて、彼らの武器がまだ残っていたりするんです」

「中東で「偶然」はありえない。何か理由がある。ヒズボラは武器売買をしている。彼らの荷物がそこにあって、それを何らかの形でイスラエルが知って事故に見せかけて攻撃したに違いない」

そう、匿名でベイルート市民が話してくれた。ヒズボラは、シーア派の政党であり、テロ組織として日本やアメリカ政府から指定されている。イスラエルやヒズボラが関係していることを示す証拠はなく、憶測に過ぎない。イスラエル政府もヒズボラもきっぱりと否定している。

しかし、レバノンの人たちはこれまでずっと隣国の介入や自国の政党に苦しめられてきており、絶対的な政治への不信感、汚職への憤りは存在する。それらが様々な「論」を作り上げているのだ。

事故の2日後にはフランスのマクロン首相が現場近くを訪れた。人々は「支援をしてほしいです。でもレバノン政府には渡さないてください。政治家に盗まれてしまいますから」、こう訴えたという。

マクロン首相はその日の記者会見でレバノンの政府を通さず、NGOに直接、支援を行うことを発表した。

事故現場を見に集まった人々
事故現場を見に集まった人々

「アラブには、『大きいことが起これば問題が終わる』ということわざがある」

そう教えてくれた人がいた。この爆発をきっかけに、政治の汚職や貧しい状況の人々に目が向き解決するかもしれないという意味である。このような悲劇にかすかな希望を見出すしかないのが、レバノンの状況なのである。

「これは終わりの始まりという気がしている」

そんな声も同時に聞いた。

止める人のいない電子音がずっとあたりに鳴り響いていた
止める人のいない電子音がずっとあたりに鳴り響いていた

※写真はすべて筆者撮影

※復興資金について世界銀行の情報を元に46億ドル変更しました。

ドキュメンタリー・ディレクター

1985年三重県出身。2011年東京大学大学院修士課程修了。テレビ番組制作会社に入社し、テレビ・ドキュメンタリーの制作を行う。2013年にドキュメンタリー映画『ファルージャ ~イラク戦争 日本人人質事件…そして~』を監督。第一回山本美香記念国際ジャーナリスト賞、第十四回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞を受賞。その他、ベトナム戦争や人道支援における物流などについてのドキュメンタリーをNHKや民放などでも制作。2018年には『命の巨大倉庫』でATP奨励賞受賞。現在、フリーランス。イラク・クルド人自治区クルディスタン・ハウレル大学大学院修士課程に留学中。

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