【幕末こぼれ話】新選組の土方歳三や沖田総司も、現代人と同じように年賀状を書いていた?
最近は年賀状を出す人が減っているようだが、毎年の年頭に日頃お世話になっている人や、親しい知人への挨拶を年賀状として送ることは、古くから行われていた風習である。
幕末の新選組においても、土方歳三や沖田総司らの年賀状が現存し、現代の私たちと同じように年頭の挨拶を重んじていたことがうかがえる。
思わず親近感がわいてしまう、彼らの年賀状というのはどのようなものだったのか。
現存する新選組の年賀状は9通
現在確認できる新選組隊士の年賀状は次のとおりである。
①文久3年1月付 土方歳三
(小島鹿之助宛)
②元治元年1月10日付 土方歳三
(平忠右衛門ほか宛)
③元治元年1月10日付 沖田総司
(小島鹿之助宛)
④元治元年1月27日付 山南敬助
(小島鹿之助宛)
⑤慶応元年1月2日付 沖田総司
(小島鹿之助宛)
⑥慶応2年1月3日付 土方歳三
(佐藤芳三郎宛)
⑦慶応2年1月3日付 土方歳三
(土方隼人ほか宛)
⑧慶応2年1月3日付 沖田総司
(小島鹿之助宛)
⑨慶応3年1月6日付 土方歳三
(小島鹿之助宛)
以上の9通となる。小島鹿之助宛のものが多いが、小島は多摩小野路村の名主で、土方らとは新選組結成以前からの親しい間柄だった。そのため現在の小島家には多くの新選組関係文書が保存され、年賀状も確認できることはありがたい。
気になる年賀状の文面であるが、例えば①文久3年の土方のものはこう記されている。
「改年のお喜び千里同風、めでたく申し納め候。ますますご重歳に遊ばさるべく陳賀奉り候。なお永日の時を期し候」
「千里同風」とは世の中がよく治まっていることを表し、おめでたい言葉として年賀状によく使われた。また「永日の時」は今度ゆっくり会おうという意味で、手紙の結びに用いられた。いずれも年賀状の定型文であり、当時の人々も現代と同じようにかしこまって挨拶文を書いていたことがわかるのである。
土方歳三の代筆をした沖田総司
ちなみに年賀状とはいっても、江戸時代にはまだハガキがなかったので、当時の普通の手紙と同様に和紙に書かれた。筆記用具はもちろん筆と墨であったから、その点は現代にも継承されているといえるだろう。
ところで上の新選組の年賀状のうち、慶応2年(1866)1月3日に書かれた⑥⑦⑧の3通は、実は筆跡が同一で、土方歳三の名で出されたものもすべて沖田総司の筆跡でしたためられている。
沖田自身の署名のある⑧の文面は次の通りで、土方の名になっている⑥⑦もほぼ同じ文言が記されているのだ。
「新春のご吉慶、際限ござあるべからず候。いよいよご勇剛にご越年、めでたき御義に存じ奉り、ついては私義ことなく加年つかまつり候。右年頭ご祝詞を申し上げたく、愚札を呈し候。なお永陽の時を期し候」
なぜ3通すべてが沖田の筆跡なのか。それはいうまでもなく、沖田が土方のものも代筆したからであっただろう。「総司、俺の分も書いておいてくれよ」というようなやりとりがあったことは容易に想像がつく。
隊務に多忙な副長土方が、つい面倒な年賀状書きを沖田に頼んでしまったとすれば、現代にも通じる年末年始の風景のようで微笑ましい。
ちなみに、上記9通の記された日付を見てもわかるように、当時の年賀状は旧年中ではなく年が明けてから書くものだった。大みそかも近いのにまだ年賀状を書いていないよとお嘆きの諸兄、この際、年が明けてからでもいいので気分を新たにして書いてみてはいかがだろうか。