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[高校野球・あの夏の記憶]奇跡のバックホーム、その向こう側②

楊順行スポーツライター
(写真:岡沢克郎/アフロ)

 1996年夏の甲子園、決勝。3対2とリードした松山商の守りは2死走者なし、あと一人で27年ぶりの優勝である。

 熊工の打席には、1年生の沢村が入った。ナミの1年生ではない。八代六中時代、全国制覇。2学年上の兄は八代工在学中だが、甲子園に出るには熊本工、と兄の誘いを振り切ってこの強豪に進学している。同学年35人ほどはボールにさわれず、基礎トレーニングに明け暮れるなか、一人だけ上級生にまじって練習することを許された。4月中には試合に出はじめ、5月にはレギュラーに定着。これは元巨人の緒方耕一以来、12年ぶりのことだという。野田が「アイツを1年生とは思っていない」というのは、県大会の成績が証明している。17打数9安打の打率は本多の5割をしのいでレギュラー中チーム一だし、なにより5試合で11打点はダントツだ。

 熊本の準決勝では、兄のいる八代工に勝ち、決勝は東海大二に3安打5打点。もっとも甲子園では、やや精彩を欠いていた。初戦こそ2安打したものの、続く3試合はヒットが出ていない。ただ「テレビで見ていた方から、“ボールを見すぎている。もっと積極的に”といわれて」、準決勝では貴重な2点タイムリーを放った。決勝でも2回に内野安打1本を放ち、復調気配だ。

 アウトになれば、ゲームセットの場面。田中監督は「思い切っていけ」。野田は「幸明、ホームランを打て!」。9回2死、打線は下位に向かう。連打で得点、という確率はきわめて低い。だから、ホームランしかない……本多の目からは、打席に向かう沢村が笑っているように見えた。沢村はのち、こう振り返っている。

「前の二人が三振しているので、ネクストで“自分も三振するわけにはいかない”と思っていました。それには積極的にいくしかない。最後の打者にはなりたくないけど、とにかく芯に当てよう、と最低限のことを考えていました。大きいのとか、ヒットを打とうではなく、とにかく芯に当てよう、と」

 ストレートなら初球からいく、変化球なら手を出さない。そう決めていた。一方、新田と石丸裕次郎の松商バッテリー。ここは急がず、まずはアウトコースに外して様子を見よう。その、初球。ボールから入るはずのまっすぐが、ややシュート回転して外から内へと、沢村のヒットゾーンに入ってくる。きた! まっすぐだ。積極性を取り戻していた沢村のバットが迷いなく走る。ライナー性の打球がレフトポール際へ。行け、行け! と熊工ベンチ。切れてくれ、と松商ベンチ。沢村が一塁を回ってガッツポーズしたときには、新田はヒザを折り、マウンド上でしゃがみ込んでいた。まるで劇画のような、9回2死走者なしからの一発——試合は振り出し。まだ、終わらない。それにしても、と沢村は回想する。よく初球から行ったな、いま思うとゾッとしますよ……。

9回裏2死走者なしから劇的弾、そして……

 淡々と進んでいた試合が、にわかに激しく動く。それも、絶体絶命から盛り返した熊工に流れが向くのが甲子園の法則だ。田中監督の表現を借りれば「映画“ジョーズ”で、人食いザメがしのびよってくる音楽のように」球場全体が熊工を後押しする空気になる。10回表、松商は走者を一人出したもののゼロ。その裏熊工は、先頭の星子崇が左中間に二塁打を放つ。松商は、球数が135に達していた新田をライトに下げ、渡部がマウンドに上がった。

 田中監督はここで、次打者の園村が敬遠されると踏んだ。サヨナラの場面を守る側からすれば、バントされて1死三塁になるより無死一、二塁のほうがまだ守りやすい。ただ松商・沢田勝彦監督の考えは多少違っている。確率は低いが、バントを失敗してくれる僥倖もある。かりに三塁に送られたら、そこから敬遠して満塁策をとればいい。1点を取られたらどうせ終わりなのだからと、むしろそちらを選択した。園村は、やすやすと送りバントを決める。よし、勝った——田中監督は確信した。次打者の野田に、ささやく。「謙信、スクイズだ」「わかりました、完璧に決めてきます」。だが松商ベンチの作戦は敬遠。満塁策だ。次の坂田も敬遠されて、打席には本多が入った。

 1死満塁である。ヒットはもちろん、スクイズでも、外野フライでも、深い内野ゴロでも、あるいはエラーでも熊工のサヨナラ勝ちだ。実は沢田監督、打つ手がワンテンポずつ遅れていた。渡部が登板した時点で、本来ならば背番号9をつけた矢野勝嗣をライトに入れるべきだ。だが、すべてを渡部に託すのも不安で、新田をベンチに下げずにいた。1点取られればサヨナラ、という場面では、必要のない慎重さでもあった。満塁にしてから、ようやく腹をくくった。ライト、矢野——。

 代わったところにボールが飛ぶからな! ベンチのそんな声を受けて、矢野が守備位置につく。だが、急な守備交代で、キャッチボールすらろくにしていない。田中監督は、ネクストの本多にこう声をかけている。サインは出さない、オマエだったら打てる。行ってこい! 本多はいう。

「打席に入ったとき、周囲は大歓声が響いているのに、僕の意識の中では空白の一瞬がありました。それが不思議なんですが、亡くなった祖父が話しかけてくれている気配なんです。よくキャッチボールをしてくれて、甲子園につれていくと約束したのが、中学のときに亡くなった。僕は霊感が強いわけでもないし、後にも先にもそういう体験はその1回だけですから、本当に祖父が見に来てくれたと思うんですよ」

 そして渡部の初球、スライダー。“代わったところにボールが飛ぶからな!”という声そのままに、矢野のライトに打球が上がるのである。ストレート待ちだった分ちょっと泳いだが、手応えからは飛距離は十分だ。よし! 勝った……本多は思った。二塁塁上の野田も。自分は得点には関係ないから、不用意に早く離塁し、アピールアウトになるのだけは気をつけようと、打球の行方をじっくりと見つめていた。その野田。

「いい角度で上がった打球ですが、風のせいか泳ぎ気味だったせいか、途中から失速して急に落ちていったんです。矢野君があわてて前進してきて、投げるところまで見ています。リリースした瞬間、暴投だと思いました。かなり軌道が上でしたから……」

 捕球と同時に、三走の星子もタッチアップでスタートを切る。矢野の送球を見て、松商の捕手・石丸はアイツ、またやった……と観念した。練習でも、なまじ肩に自信があるだけに矢野は、ホームへのダイレクト返球を試みて大暴投することがあったからだ。ところが、だ。やや上ずりかげんの送球が、正確無比に自分をめがけてくる。左からは、星子の足音。あれあれあれ? ひょっとすると、ひょっとするかも。夢中でボールをつかんだそこに、ちょうど滑り込んでくる星子の上半身があった。

 星子と石丸、2人が祈るように田中球審を見上げる。熊工ベンチも、松商ベンチも。判定は……アウトだ。もし何百分の一かでアウトにできるとしたらここしかない、という針の穴を通すようなバックホームで、松商はサヨナラ負け寸前から生き返るのである。

頂点まで、あと5センチが……

 球史に残る、奇跡のバックホーム。野田はいう。

「考えられないですよ、あのアウトは。神業です。あそこで、僕たちの時計は止まりました。わけがわからなくて、チェンジなのに、しばらくだれ一人守備につこうとしないんです。ようやく守備についたときには、これは点を取られると思いました。それまではネット裏を中心に、スタンドの応援がきれいにまっぷたつだったんです。一塁側が熊工、三塁側が松商と、拍手もくっきり分かれていた。それが……あのビッグプレーのあとは、熊工アルプス以外のスタンドすべてが、松商に肩入れしている。僕たちは球場全体に飲み込まれているみたいで、この流れは止めることはできないと思いましたね」

 絶体絶命から盛り返したほうに流れが向く、甲子園の法則。しかも11回表の松商は、その主役・矢野からの攻撃だ。矢野が二塁打で出ると、1死三塁から四球。そして、星加のセーフティー・スクイズで松商が1点を勝ち越したところで、勝負はほぼ決まった。今井が、ダメ押しのツーベース。11回の表に、重い重い3点が刻まれる。熊工3度目の決勝も、3対6。またも大旗には手が届かなかった。

 それにしても——いまビデオを見直しても、あと5センチ、星子の足が先に届いていたら、というタイミングだ。瑕疵は、いくつかある。サヨナラのランナーとして、星子が、必要以上にスタートで慎重になったこと。スライディングの方向指示がなく、タッチを避けられなかったこと。だがそれよりなにより、100回のうち1回成功するかどうかの、矢野の神業をほめるべきだろう。

 あと5センチ……あれは、セーフじゃなかと? 熊本では、盛り場のあちこちで悔しまぎれの会話が交わされたという。だが、熊工ナインは口をそろえる。足が入ったように見えますが、アウト。あの球審の方はすばらしいと思いますよ。100人が100人セーフだと思うところをアウトというには、よほどの確信があったはずです。3333段目、頂点まであと5センチ——。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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