スコットランド独立問題を斜めに読む-英国の制度と思想から
9月18日、スコットランド独立の是非を問う住民投票が行われます。今年初め、その大まかな歴史的背景についての記事を書いた頃には、世論調査の結果で反対派が過半数を占めていたため、「独立賛成派が勝つ確率は大きくない」と述べたのですが、選挙戦終盤に来て熾烈なデッドヒートが繰り広げられているのをみると、過去の記事の結論との整合性にハラハラしてしまいます。
個人的なことはともあれ、「国家としての独立」という、これ以上ないほど大きなテーマである今回の選挙は、かつてない接戦となっており、日本でも大きく報道されています。ただ、そこには2つのテーマが内在しています。第一に、分離独立問題が表面化したのが、なぜ他のヨーロッパ諸国でなく英国なのか。第二に、固有の伝統や文化をもつ民族は、常に独立を求めるものなのか。これらを、英国の政治制度と思想的潮流から読み解きます。
「少数者保護」の不備
ヨーロッパは近代以降、「国民が国家を形成する」という理念が生まれた土地でありながら、中世以前からの歴史的背景から、各地に固有の文化や伝統が残っているところが珍しくありません。フランスでは革命の前後から人工的にパリ集中が進み、特に革命後は(当時はパリ近郊など限られた土地で用いられていた)今でいうフランス語が全国の小学校で強制されるなどして「国民化」が進みましたが、これなどは例外的なケースです。むしろ、「国家」という人工的な区画のなかで、文化、宗教、民族が林立し、それを超えて「国民」として緩やかな一体性を持つ国が一般的です。
地域ごとに文化的な違いが大きいことから、ヨーロッパ大陸の多くの国では、少数派を排除しない政治制度が発達しました。例えば、大陸の多くの国では、有権者が候補個人ではなく政党に投票し、政党の得票数に応じて議席を配分する比例代表制が採用されています。比例代表制は社会に分散している意思を議席数に反映させやすいのですが、その結果、過半数の票を獲得するような政党はほとんど生まれません。そのため、ヨーロッパ諸国では複数の政党によって構成される連立政権が一般化しています。また、ドイツ、ベルギー、スイスなど少なくない国で、各州に高い自治権を認める連邦制が導入されています。
これらの制度は特定の階層や地域が圧倒的に強くなったり、少数者が政治的に排除されたりしないための仕組みといえますが、民族や文化が混在し、まともに多数決で物事を決めたら「永遠の少数派」が不満を募らせ、逆に社会全体にとって危険な社会がこれらの制度を生んだといえるでしょう。ただし、それでもスペインのバスクに象徴されるように、大陸でも分離独立の動きがあります。余談ですが、ヨーロッパでは都市や地域と密着したチーム同士のサッカーの試合はさながら戦争のようですが、一国内部でも均質性が必ずしも高くないことが、その背景にあるといえるでしょう。
ところが、それらのなかでスコットランドが世界の耳目を集めるようになったことには、英国的な背景を見出すことができます。つまり、英国は「近代民主主義の母国」でありながら、ヨーロッパ大陸諸国でみられるような、比例代表制や連邦制など「少数者を保護する政治的制度」がほとんどありません。
英国の選挙制度は、各選挙区で一位通過の候補だけが議席を獲得する小選挙区制です。小選挙区制は一人だけが当選するので、非常にわかりやすい反面、当選した候補以外に投票した有権者の意思は、ほとんど無視されることになります。「勝者総取り」と呼ばれる所以です。また、小選挙区制は単独政権、二大政党制が生まれやすく、これは効率的な意思決定が可能である一方、Yes/Noで物事を判断する傾向を強めるため、少数派が排除されやすくなります。しかも、実質的に一院制(上院にあたる貴族院はほとんど世襲)であることは、より権力の集中を進めます。さらに、大都市圏を中心に地方分権が段階的に進んでいるとはいえ、連邦制ではなく、ロンドンに政治権力と経済力が集中する仕組みに大きな変化はありません。つまり、ヨーロッパ大陸諸国と異なり、英国では小選挙区制と中央集権制のもと、文化や習慣が異なる少数派がその独自性を政治的に保障する手段が制約されてきたといえるでしょう。それは、翻って多数者に対する不満を、かえって鬱積させることになります。
「自由」の二側面
大陸諸国と比較して、「少数者保護」を積極的に推し進めなかった背景としては、英国を起源とする「自由主義」の理念をあげることができます。政府や社会による私的領域への干渉を拒絶することをもって「自由」と捉える思潮は、宗派間の対立が絶えなかった17世紀、(イングランド出身の)ジョン・ロック(1632-1704)によって生み出されました。内心でどんな信条をもとうが、家庭で何をしようが、社会に不利益を及ぼさないのであれば、それは個人の自由であり、尊重されるべきであるという考え方は、個人の内面にまで立ち入って対立を繰り返していた時代背景のもとで生まれたものでした。この「自由」の観念は後に「人権」に昇華し、例えばかつて死刑の対象となっていた同性愛者の権利保護に結びつきました。その意味では「少数者保護」に結びついたのですが、地域的、民族的な少数者の保護という意味では、この「自由主義」は必ずしも有効ではなかったといえます。
「個々人が私的領域で何をしても自由」という考え方は、裏を返せば「公的領域では共通性をもつ必要がある」ことになります。つまり、公の場で皆が共通の習慣やルールを尊重しているからこそ、プライベートな空間での自由が容認されることになります(英国人が子供のしつけに結構厳しいのは、この思想的背景によります)。ところで、公的領域で「共通の習慣やルール」を重視するということは、男女などの差なく競争できることを是認する反面、英国社会で暗黙のうちに支配的位置を占めているイングランドのそれを「英国共通」のものにすることを事実上認めることになります。
例えば、スイスでは州によって公用語が異なります。その土地で汎用性の高い言語の使用の承認は、土地の独立性の第一歩です。ドイツでも、教育は各州政府に監督権があります。しかし、英国の場合、そこで通じる言語は基本的に英語だけです。観光などでスコットランドに行き、スコットランド人に ‘English’ と言って、「Scottishと言いなさい」と怒られた経験のある人もいると思います。ただ、かつてはともかく、ボキャブラリーに多少の違いがあるとはいえ、両者はもはや、ほとんど同じと言って差し支えないでしょう。つまり、大陸諸国の少数派と比較して、スコットランドはそれだけ中央集権化の波にさらされてきたわけですが、多様な言語や文化は「私的領域にとどめるべき」であり、公的領域ではEnglish に代表されるイングランドのものがスタンダードとされることは、少なくとも結果的に、この観点から理論的に正当化されてきたのです。
英国でも1990年代から地方分権が進み、1999年にはスコットランド議会が設立され、外交、国防、エネルギー、社会保障などを除き、警察や教育を含めた幅広い分野で法律を策定する権限が与えられました。しかし、1707年のイングランド併合以来、300年近くその発言力が抑え込まれていたことに鑑みれば、それが少なくとも結果的には、スコットランドの不満を和らげるよりむしろ、分離独立の方向に向かうプラットフォームになったことは、後知恵ですが、不思議ではありません。
「他者」による支配:反発か、受容か
ところで、スコットランドやアイルランドは、英国が近代国家として形成されるなかで、イングランドによって事実上「内なる植民地」として併合された地域です。いわば「他者」によって支配される状況は、古今東西、多くの人にとって違和感をもつものでしょう。英国の場合、その反動は、様々な思想の形成にも反映されました。
スコットランド出身の学者といえば、近代経済学の礎を形成したアダム・スミス(1723-90)が有名です。アダム・スミスは「政府による経済の管理」を徹底的に排除することを是とする主張で知られます。しかし、そこに18世紀当時、スコットランド出身のスミスに、ロンドンの中央政府が特定の大商人を優遇し、国ぐるみで経済活動を行う「重商主義」への反発があったことは見逃せません。また、スミスはスコットランドにあるグラスゴー大学を経てオックスフォード大学でも学んでいますが、その閉鎖性や守旧性を後年『国富論』のなかで批判しています。つまり、ロンドンに中央集権的な体制があったことは、後の世に自由放任を是認する一つの潮流を生み出す土壌になったといえるでしょう。
ところが、その一方で、近代英国における「他者による支配」といういびつな状況は、むしろそれを容認する主張をも生み出しました。やはり18世紀のスコットランドが生んだ大学者には、エディンバラのデイヴィッド・ヒューム(1711-76)がいます。自我の観念を含め、あらゆるものの存在を疑う「懐疑論」を打ち立てたヒュームは、「神が国王に統治を認めた」という王権神授説や、太古の昔に「人々が政府に統治を認める契約を交わした」という社会契約論では、それが歴史的に確認できない以上、イングランド国王やウェストミンスターの議会による支配を正当化できないと論じました。
しかし、そのうえでヒュームがたどり着いた結論は、「いかなる起源であれ、人々がその必要と利益を見出す限り、習慣的な黙従によって社会は維持される」というものでした。神の意志や個人の合理的判断でなく、利益と習慣を社会の安定要因と捉える主張は、言い換えれば「計画的に社会を作ることはできない」となります。その論理は「必要と利益を見出す限り」、イングランドの支配を受け入れざるを得ないという主張と、紙一重といえるでしょう。
ヒュームの論調は、後に「合理的理性」をもって社会変革を目指したフランス革命を痛罵した、エドマンド・バーク(1729-97)に引き継がれたといえます。バークはアイルランド出身で、父親は英国国教会信徒、母親はカトリック信徒でした。宗教改革の余波が残る18世紀の英国で、英国国教会は「支配する側」、カトリックは「支配される側」の象徴でした。しかも、アイルランドもスコットランドと同様、イングランドによって支配される立場でした。このような複雑な状況下、バークが「自由・平等・博愛」の理念に基づき、社会を一から作り直そうとするフランス革命を「後世の人々に廃墟を残すもの」と否定し、様々な矛盾を抱え込みながらも一定の期間存続したこと自体に存在意義を見出す保守主義の理念を打ち立てたことは、注目に値します。
もちろん、その主張は、バーク自身がアイルランド出身とはいえ法律家の父をもつ、いわば「支配する側」に立ち位置があったことと無縁ではありません。とはいえ、バークによって打ち立てられた「理念だけで歴史に反することを行っても成功する見込みが少ない」という考え方は、「英国人の理論嫌い、フランス人の歴史嫌い」と言われるように、英国全体に波及したといえます。ヒュームのそれと同様、バークの主張もやはり、いびつな社会であっても、それを定規で線を引くように改革することへの警戒を示すといえるでしょう。今回、スコットランドで独立を目指す動きが顕在化したことに、ヒュームやバークが生きていたら何とコメントするかは、興味のあるところです。
「伝統」とは
ところで、スコットランド独立が現実味を帯びてくる中、独立を支持する人々の多くが「民族」や「伝統」をキーワードにすることは、当然といえば当然です。そして、スコットランドの伝統の象徴としてよく取り上げられるのが、タータンチェックのキルト(男性スカート)とバグパイプです。映画俳優ショーン・コネリーが2000年にナイト爵を授与された際、スコットランド人としての自負からバッキンガム宮殿にキルト姿で乗り込んだ姿を、印象的に覚えている人もあるかもしれません。
しかし、キルトとバグパイプは、かつてイングランドという先進地からみたスコットランドの「野蛮」のシンボルに他なりませんでした。それが「民族の伝統」としてのプラスの認知を得たのは、18~19世紀にかけて、イングランドやアイルランドに対抗するために自らのシンボルをもつ必要から、いわば人為的に「スコットランドの伝統」の地位に祭り上げられたのです。
英国の歴史学者エリック・ホブズボームは著書『創られた伝統』において、一般的に「古来から続く」と考えられがちな「伝統」が、実は多くの場合、近代以降に「創造された」ものであると述べました。ホブズボームによると、「伝統の創造」とは社会的な変動に対応するために、既存の伝統を新たな目的に使うか、あるいは全く新たな目的のために歴史的材料を用いて新しい伝統を創りだすことをいいます。例えばタータンチェックのキルトの場合、19世紀に産業革命で大量生産が可能となるなか、「スコットランド伝統の」と銘打って大々的に販売されたことで、多くのスコットランド人の手にとどくことになりました。キルトとバグパイプが「民族の独立」を指す一種のプラスのシンボルとして位置付けられることで、逆にスコットランドとしての一体性が醸成されたといえるでしょう。
これまた余談ですが、バグパイプの音色は、最近では朝の連ドラ「花子とアン」のBGMでもちょいちょい聞こえてきます。「赤毛のアン」の舞台であるカナダは、かつて英国の植民地でした。そして、カナダだけでなくオーストラリア、インド、南アフリカ、ニュージーランドなどの植民地に出て行ったのは、英国内部にいても先の見込みが薄い人たちがほとんどで、必然的にイングランド人よりスコットランド人やアイルランド人が多かったのです。新たな土地に移り住んだスコットランド人が望郷の念をもって演奏するなか、旧英領の白人社会でもバグパイプが「伝統」になったといえます。
さて、先ほど取り上げたバークが伝統を人為の及ばないもの、それ自体が価値をもつものと捉えていたのに対して、ホブズボームは伝統を人為の産物と捉えました。そのうえで、「国民」「民族」としての意識、すなわちナショナリズムという近代的な観念は、多かれ少なかれ「伝統の創造」を含むと述べました。人為によるスコットランド独立をめぐる選挙が近付くなか、キルトとバグパイプがそのシンボルとなっていることは、その意味では不思議でないといえるでしょう。
「スコットランド独立」がもたらすもの
前轍を踏まないようにして言えば、スコットランド独立をめぐる住民投票のゆくえは予断を許しません。
ただし、大陸諸国と比較した英国の政治制度に鑑みれば、投票の実施に至ったことは不思議でありません。そして、仮に独立反対派が多数となった場合でも、ロンドンは今まで通りスコットランドを遇することはできないでしょう。既にキャメロン内閣はさらなる地方分権をアピールすることで、分離独立を思いとどまるようスコットランド住民に訴えています。その意味では、スコットランド独立が実現しなかった場合でも、今回の選挙は英国の政治体制に一石を投じることになりました。
他方、今回の選挙では「独立支持=民族の理念の尊重」「独立反対=経済的利益の優先」という文脈で語られることが多いのですが、スコットランドやアイルランドといった英国内部の「周辺部」が輩出した碩学たちの見解から「他者による支配」がもたらす反発と受容の思潮を踏まえてみたとき、そして「伝統」と「民族」が人為の産物である側面に鑑みるとき、独立の賛否が拮抗する状況は、単純に上記の二項対立で割り切れるものではないといえるでしょう。言い換えれば、白黒で割り切れないグレーな要素を多くのスコットランド人が抱えているとしても、不思議ではありません。ところが、どこの国でもそうですが、選挙は社会にとっての遠心力となり得ます。いかにYes/Noを明確にすることをよしとする英国であれ、今回ばかりは、白黒をはっきりつけることで、後に禍根を残すことになりかねません。したがって、いかなる結果になろうとも、今回の選挙を経た後のスコットランドには、さらなる試練が見込まれるといえるのです。