石田三成のおかげで窮地を脱した舞兵庫は、関ヶ原合戦で討ち死にしていた
現代であっても、人から窮地を救われることがあるだろう。実は舞兵庫もその1人で、養父の前野長康が豊臣秀次に連座して切腹した際、石田三成により助けられた人物である。兵庫がいかなる人物なのか、考えることにしよう(以下、舞兵庫は兵庫で統一する)。
兵庫は前野忠勝の子として誕生したが、生年は不詳である(永禄3年〔1560〕誕生という説がある)。その後、兵庫は前野長康の娘を妻として迎えた。
もともと兵庫は前野忠康と名乗っており、通称が兵庫介だった。こうして、兵庫は長康のもとで、各地を転戦したのである。養父の長康は秀吉の古参格の家臣であり、のちに秀次(秀吉の養子)に仕えた。
兵庫は、秀次の若江八人衆の1人でもあった。若江八人衆とは、秀次の親衛隊である。つまり、兵庫は秀次の家臣の中でも、かなりの地位にあったといえよう。
ところで、そんな長康、兵庫に不幸が訪れた。文禄4年(1595)、秀次が養父の秀吉から謀叛の嫌疑を掛けられ、自害を命じられた。秀吉が秀次に自害を命じた理由は諸説あり、今も議論が続いている。
その際、長康は秀次を救うべく、弁明を行ったという。その結果、長康は自害して果てたのである。この場合は、秀次に殉死した形になろう。
養父の長康が自害を命じられたことにより、兵庫は窮地に陥った。当時、兵庫は長康の代わりに出石城を守っていたが、秀次の事件が勃発すると、開城を迫られたので応じた。その後、兵庫は藤堂高虎を頼りにし、のちに織田常真(信雄)の屋敷に逃れたというが、厳しい状況は変わらなかった。
その際、手を差し伸べたのが三成であり、兵庫は5千石という高禄で召し抱えられたのである。同時に、姓を前野から舞に変えたといわれている。以後、兵庫は島清興(左近)と並び、三成の重臣として処遇された。
慶長5年(1600)に関ヶ原合戦がはじまると、兵庫は三成の命により出陣した。同年8月23日の合渡川の戦いにおいて、兵庫は東軍の奇襲攻撃を受けて敗北し、大垣城に退却した。そのとき三成の家臣の前野吉康が東軍の追撃を食い止めるため、あえて「兵庫が死んだ」と誤報を流したという。
実際に兵庫が亡くなったのは、同年9月15日の関ヶ原合戦の本戦のことで、長男の三七郎もともに討ち死にしたのである。その子孫は、再び藤堂高虎に助けられた。