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【光る君へ】藤原彰子の入内の際、藤原実資が藤原道長からの屏風歌の依頼を断わった理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「光る君へ」では、藤原彰子(道長の娘)が一条天皇に入内した。彰子が入内する前、道長は和歌の色紙を貼った屏風を制作して贈ろうとした。

 藤原実資は道長から和歌を詠むよう請われたが、断わった。その事情を考えることにしよう。

 藤原彰子が一条天皇に入内したのは、長保元年(999)11月のことである。その直前の同年10月、藤原道長は彰子が入内するに際して、和歌の色紙を貼り込んだ屏風を贈ろうと考えた。

 屏風絵を描いたのは、絵師の飛鳥部常則(生没年不詳)である。この頃には亡くなっていたと考えられるので、絵は常則が描き残した作品であろう。残念ながら、常則の作品は現存していない。

 その屏風絵には、三蹟の1人として知られる藤原行成が筆をとって、人々が詠んだ和歌を記した。和歌を詠んだのは道長のほか、花山法皇や公卿らだった。大変豪華な屏風絵だったことが理解されよう。

 屏風絵は、わずか7日ほどで完成した。その間、公卿らは和歌を作り、道長に贈ったのである。道長は大いに喜び、作歌した人々に酒を振舞った。しかし、必ずしも全員が応じたわけではない。

 藤原実資を和歌を作って欲しいと道長から依頼された1人だったが、断わった。断わったのには、もちろん理由があった。当時、屏風歌は専門の歌人が詠むもので、公卿が詠むようなものではなかったからだ。

 古来、和歌の名手は数多く知られているが、官位の低い下級貴族も少なくなかった。彼らは仕事の合間に屏風歌などを作り、副業として収入を得ていたのである。それゆえ、実資は断ったのだ。

 一方で、藤原公任は期日になっても、道長に和歌を提出しなかった。公任は「四月の藤の絵」の作歌を頼まれていたが、駄作ならば末代の笑いものになるので、提出すべきか悩んでいたのである。

 公任は道長から何度も和歌を催促されたので、いちおうは提出しようと参上したが、なかなか詠みあげようとしなかった。そこで、道長がむりやり公任の和歌を詠みあげたところ、一同は感心したという。

 道長が屏風を制作しようとした理由は、花山法皇や公卿から和歌を寄せられることにより、その政治的な立場を誇示しようと考えたからだろう。実資は、そういうことを見抜いていたのかもしれない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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