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関ヶ原合戦後、逃げる島津義弘を命懸けで救った2人の武将とは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(写真:イメージマート)

 人のために命懸けになって、何かをするというのは非常に難しいことである。関ヶ原合戦後、逃げる島津義弘を命懸けで救った2人の武将がいたので、紹介することにしよう。

 慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原合戦において、島津義弘(維新)は西軍に与して戦うことになった。しかし、義弘は兄の義久と折り合いが悪く、引き連れた軍勢はかなり少なかった。西軍を率いた石田三成らにとっては、大きな誤算である。

 合戦がはじまると、西軍の毛利勢、小早川勢が裏切ったこともあり、最終的に東軍が勝利を収めた。島津氏は戦場から離脱すべく、徳川勢を振り切ろうとした。とはいえ、島津氏は小勢で、徳川勢は決して追撃の手を緩めなかった。そこで、2人の武将が命懸けで義弘を守ったのである。

◎長寿院盛淳(1548~1600)

 長寿院盛淳はかつて僧侶だったが、義久に家臣として取り立てられた。関ヶ原合戦が迫ると、盛淳は家臣を引き連れ、義弘のもとに向かった。敗戦後、盛淳は義弘から拝領した縫箔の羽織を具足の上に着用し、石田三成から贈られた団扇を手にしていた。義弘の身代わりである。

 そして、盛淳は馬を返すと、約700の徳川勢に斬り込み、その間を利用して、義弘は逃げた。盛淳は義弘が離れて行ったのを確認すると、大音声をあげて敵に突撃し、義弘の身代わりになって討ち死にしたのである。

◎島津豊久(1570~1600)

 関ヶ原合戦が迫ると、島津豊久はおじの義弘とともに西軍に与した。一説によると、豊久は三成に東軍に夜襲を仕掛けるよう献言したが、これは却下されたという。この話は『落穂集』という二次史料に書かれたものなので、疑わしいとされている。

 敗戦後、義弘は死を覚悟していたといわれ、豊久が義弘に逃げるよう進言しても応じなかったという。そこで、豊久は義弘に「島津家にとって大切なお体なので、落ち延びてください」と説得すると、自ら殿(しんがり)を志願して敵陣に突撃。戦死したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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