ボランティアの一大拠点となった豪雨被災地 なぜ「被災者」が支援に動けたのか?
ベテランNGOスタッフ「まさか地元でこんなことが起こるとは…」
総社市の自宅にいた難波妙(なんば・たえ)が「これは今までの雨とは違う」と感じたのは7月6日午後11時半のことだった。6日時点で、岡山市には大雨特別警報が発令されていた。
その時刻、総社市内一帯に大きな爆発音が響き渡った。豪雨の影響で、アルミ工場の爆発が起きたのだ。
難波は岡山市に本部を置く国際医療NGO「AMDA(アムダ)」のスタッフで、勤務歴15年のベテランである。AMDAは国内外の被災地に医師、看護師などを派遣して医療支援にあたるNGOだ。
益城町出身のスタッフがとった行動
難波は熊本県益城町出身で、熊本地震で実家が被災しながらも、最前線で支援を仕切った経験がある。
爆発音を聞き、地元でとんでもないことが起きていると思った難波は、真っ先に総社市と組んで支援活動を展開しようと決めた。
AMDAと総社市は協定を結んでおり、東日本大震災や熊本地震の現場でも職員が一緒に救援活動にあたった実績がある。「顔が見える関係」を築いている同士、一緒に支援活動を始めようと思うのは当然のことだった。
スタッフ向けのLINEで支援活動を翌7日から開始すると伝え、その日の夜は体力を確保するために睡眠をとった。この判断が正解だったことを彼女は一夜明けてから知ることになる。事態は想定を超えていた。
支援する側にいる自分たちが、まさかここまで大きな災害の「被災者」になるとは思ってもいなかった。
最悪=大規模決壊を覚悟した
アルミ工場の爆発音を聞きながら、「最悪」を覚悟した首長がいた。総社市長・片岡聡一である。片岡は市役所内に設置した災害対策本部に詰めていた。それまでに市内の町内会長を集めて、可能な限り早急に避難をしてほしいと呼びかけた。
「平時のルールは意味をなさない。命を守るための行動を」が指針だった。彼の頭の中にあった「最悪」、それは市を流れる最大河川・高梁川(たかはしがわ)の大規模な決壊だった。
爆発音を聞き、片岡は窓を開けて高梁川の方角を見る。「大規模に決壊すると、こんな音がするのか」と覚悟を決めた。
残っていた100人余の職員全員に、「全員、自分の命の確保を」と指示を出す。頭をよぎったのは東日本大震災の映像だった。黒い水の塊(かたまり)が総社市内に押し寄せるに違いないと腹を括る。10秒、20秒、1分……。水は来ない。予測は外れた。次に出てきた感情は安心ではなく、恐怖だった。
片岡の回想――。「自分でも妙な感覚でした。一度、覚悟した最悪は避けられたと思ったのですが、だからといって危機を回避できたわけではない。いつ最悪の事態が訪れるのかわからないのが怖かった」
難波と片岡、2人の直感は7日朝に重なる。
この水害は長期化する。
「災害関連死、二次被害を防ぐ」市長の決断
7日朝、難波はAMDA理事長で医師の菅波茂(すがなみ・しげる)と連絡を取り、総社市とともに救援活動にあたる方針を確認。同日11時52分、災害対策本部で双方で協議を開始し、即座に避難所の巡回が決まった。
総社市にある避難所には真備町からの避難者もいた。難波は岡山市などから医療スタッフを集めて、翌8日午前には医師ら33人とともに避難所内に救護所を設置する。
片岡は「災害関連死、二次被害を防ぐ」と方針を決め、難波を中心にしたAMDAチームにその業務の一切を委ねた。業務には避難所の巡回、受け入れたボランティアの熱中症対策なども含まれている。片岡は言う。
「非常時に大事なのは人事と即断即決。支援経験がある職員を中心に据えて、AMDAや他市からの応援職員と一緒にできる態勢を整えた。災害時に首長は迷っていてはいけない。支援が停滞してしまうからです。指揮系統は一つで、自ら決断をする。責任は自分が取ればいい」
支援を受ける側にもプライドがある
難波は総社市と連携しながら、AMDAが長年大切にしてきた指針をあらためて思い出していた。
重要な点は2つに集約できる。第1に地域のことは地域で決めるというローカルイニシアティブ、第2は「支援を受ける側のプライド」を尊重することである。
地域医療を支える医師を支援する
総社市を拠点に真備町の支援に入ったAMDAはそこで新しい活動を開始する。地域医療を担う医師の支援だ。
真備では医療機関も水害の被害を受けて、彼ら自身も被災者になっていた。復旧後も地域医療を担うのは救援に入る医師ではなく、地元の医師たちである。彼らの支援は不可欠であるという判断だった。
AMDAは7月18日、地域医療の拠点である、まび記念病院の敷地内に検診車を設置して、車両の中で、地元の医師が診察するという仕組みを作る。被災者にとっては見ず知らずの医師ではなく、かかりつけ医が診察してくれる安心感を。医師にとっては仕事を通じて、日常を取り戻すための第一歩を踏み出す場を。
被災者も医師も検診車で顔をあわせ、お互いが生きていることを喜びあったという。
「被災者の気持ちなんて本当にわかることはできない」
支援活動が終わったあとに、地域でできることを残す。これもローカルイニシアティブの一つだ。しかし、と難波は言葉を続ける。
「被災者の気持ちなんて本当にわかることはできない。日常を取り戻そうといっても、それがどれだけ大変なことか私にはわからない」
実家の母は熊本地震で被災し、仮設住宅暮らしを1年続けている。仮設住宅で1人で過ごす夜、ふとしたときに感じる孤独感は娘であってもわからない。
熊本の震災支援ではこんなことがあった。益城町内の小学校を拠点に活動した難波は、「被災した子どもたちに新品のランドセルを贈ろう」と思いつく。新1年生は数日しか使っていないのに被災した。企業から協賛を募れば、すぐ集まると校長に申し出た。
校長はたった一言、「できるものなら、がれきのなかからランドセルを探し出してあげたい」と返した。
難波は自分の申し出を恥じる。被災した子どもにとっての「ランドセル」は1つしかない。家族と一緒に選んだものだけがランドセルであり、たとえ贈られたとしても代替品にはならない。ましてや、支援する側が子どもにとってよいだろうと勝手に決めつけ、勝手に贈るものである。それは被災した子どもの気持ちを考えているのだろうか。
もう一つの地元・熊本地震で学んだこと
「支援を受ける側にだってプライドがある、と言ってきたのに私は何もわかっていなかった。子どもたちの気持ちを考えていなかったんです」
彼女が言う「わからない」とは、被災者の気持ちを理解しなくてもいいという意味ではない。被災者に対して敬意を払いながら、支援する側の分別をあらわす言葉である。難波は、自分たちはしょせん、支援をする側であり主役ではない。その謙虚さを忘れてはいけないのだと考えている。
プライドを尊重した支援とは?
プライドを尊重した支援のヒントが総社市役所の一角にあった。そこには衣類や生活用品がフリーマーケットのように並べてある。
被災した人たちが訪れ、必要なものを必要なだけを持って帰る。総社市は物資を断らずにすべて受け入れ、ボランティアが整理して並べ、あとは市民が自分たちで必要なものを決めていく。足りないもの、供給過剰なものがあれば総社市が声を上げる。
衣類1つ、お皿1枚でも人には好みがあり、行政や支援する側主導の押し付けがましい援助はしないというスタイルだ。フリーマーケット方式の導入は、片岡が決めた。
「不要だから、迷惑だから断るということはしない。何が不要かは行政が決めることではなく、市民のニーズが決めることです」
迷惑といえば、総社市は避難所で何かと問題になるペットも庁舎の会議室を開放して受け入れた。ペット避難所を設営し、飼い主とペットが一緒に避難できる環境を整えたのだ。ペットもまた家族である。一緒にいられる環境がいちばんなのだ、と片岡は言う。
緊急支援活動が終わったあとで
AMDAの「緊急支援活動」は8月15日をもって終わった。難波にとっても、NGOにとってもずいぶんと長い「緊急」期間だった。これで支援が終わるとは誰も思っていない。初動が終わっても、新しい課題は待っている。
片岡には悔いもあった。避難所の設置はスムーズだったが、たとえば洗濯機や乾燥機を一括で設置するといった設備面の支援は遅れた。必要になるものはわかっているのだから、備えることはできたと振り返る。
倉敷市立岡田小学校体育館には、建築家・坂茂(ばん・しげる)が考案した避難所用の紙の間仕切りが設置されていた。今は無人のスペースにも、マジックで書かれた真新しい張り紙が貼ってある。「入居予定」――。この先、新しく体育館で生活する人がいることを意味している。
彼らの直感どおり、長期化した「水害」は続く。
平時からNGOや他の自治体と組んで災害支援を続けていたからこそ、総社市はボランティアの一大拠点になった。日本各地で災害はどこでも起こりうる。どこかでだけ起きるわけではない。平時から支援に動くことが、実際に被災地になったときの減災、スムーズな支援につながる。
これが総社市とAMDAの連携から学べることだ。いみじくも難波と片岡は口をそろえてこう言った。
「災害支援で何より大事なのは経験だ」、と。
<月刊誌『第三文明』2018年10月号初出をもとに加筆・修正>