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湘南戦の大誤審に欠けていたエンパシー。Jリーグの『大問題』が明らかになった

清水英斗サッカーライター
主審が持つホイッスル(写真:Maurizio Borsari/アフロ)

すでに話題になっているが、J1第12節の浦和レッズ対湘南ベルマーレで大誤審が起きてしまった。前半31分、湘南の杉岡大暉が打ったミドルシュートは、右ゴールポストに当たって跳ね返り、反対側のサイドネットに突き刺さった。

ボールはぴんと張られたネットの反力で跳ね返り、それをGK西川周作が拾った。明らかにゴールラインを割っていたが、副審はポストに当たって跳ね返ったと見誤ったのか、ゴールとは判定せず。

主審の山本雄大は、走りながら副審とインカムで確認しつつ、ノーゴールとしてプレーを流した。すっかりゴールが決まったものと思い込んだ湘南は、多くの選手が杉岡とハイタッチをしており、浦和のカウンターを許す羽目に。最後はアンドリュー・ナバウトが、湘南GK秋元陽太と1対1を迎えたが、接触。ここでプレーは止まった。

当然、ゴールが認められなかった湘南は猛抗議へ。ナバウトはその後、負傷交代した。

なぜ、この大誤審は起きてしまったのか?

テクニカルな視点から、誤審が起きた背景と、そのテクニカルな改善方法については、下記の記事へのオーサーコメントで言及したため、ここでは割愛する。

「あれはゴールだった」失点を認める浦和GK西川周作…ピッチで梅崎司と交わした言葉とは?

一方で、今回は“火のないところに煙を立ててしまった”、事案でもある。

サイドネットから跳ね返ったボールを拾ったGK西川は、誰にパスするわけでもなく、適当に前方へ放り投げた。センターサークルからのキックオフを待つためだろう。特に疑うこともなくゴールと認識しており、それは所作からも明らかだった。周囲の浦和選手も同様だ。湘南側が抗議するまでもなく、浦和のゴール近くにいた選手はほぼ全員、ゴールと認識した様子だった。

しかし、その火のない状況を、審判がひっくり返し、煙を立ててしまったことになる。この事実は、サッカーの審判という存在意義にも疑問符が付く。

もともと創世記のサッカーは、審判がいないスポーツだった。基本的に自己申告でプレーし、判定に揉めることがあれば、両チームの代表者が話し合って決める。しかし、徐々にそれでは収集がつかなくなってきたので、第三者の視点で決めてスムーズに試合を進めるため、審判がピッチに入るようになった。そんな背景がある。

そのような第三の意見者、揉め事の仲裁人としての意味付けから考えれば、火のないところに煙を立ててしまうサッカーの審判は、存在意義に疑問符を付けざるを得ない。

主審の山本雄大は、GK西川や周囲の様子を見ることができなかったのか。ゴール判定そのものは副審の仕事だが、主審は西川の所作を見ながら、再考する余地があったはず。試合や選手の気持ちを汲み取る、エンパシー(共感)が、審判側に足りなかったのではないか?

下の記事でも言及したが、エンパシーが欠如していることが、今回のように“審判だけが違う方向へ突き進む”原因でもある。これはゴール判定だけでなく、スローインなど、さまざまな場面で起きている。

誤審だけでなく、すっきりしない試合。日本対オマーンは『エンパシー』が欠けていた

もちろん、エンパシーだけで、このような重要判定を差し戻すわけにはいかないが、たとえば主審が副審から、ノーゴールの判定に至った見方を詳しく聞き、反対側の副審、第4審判の意見を聞くことも可能だろう。

あるいは逆に、反対側の副審や第4審判のほうから「サイドネットに入ったように見えたが?」「西川がゴールと認識した様子だった」と進言することも可能であるはず。自分の担当範囲はここだけ、と決め付けず、主審と共に試合に責任を持つ気持ちさえあれば。

なぜ、エンパシーは欠如してしまうのか? この問いは根深い。

そして、これは審判だけの問題ではない。“共感”と言うからには、相手もいる。

それは選手だ。

今回の当事者である湘南と浦和の態度に、特に問題はなかった。怒るのは当然だろう。むしろ、湘南の選手や監督は、素晴らしい態度とスピリットを見せた。

ところが、残念だったのは、外部で試合を見ていた他クラブの選手たちのツイート。

「笑いをこらえきれないくらいひどすぎる。。。」「これでノーゴールの判定はありえない」「どうみてもゴールじゃん こういうの減らそうよ」

憤るのは仕方がないが、あまりにも発言にリスペクトが無さすぎる。興奮した試合のピッチで、あるいは当事者がそう言うのは受け流せるが、落ち着いた状況の他クラブの選手が、SNS上で袋叩きのように発言するのは、かなり違和感がある。果たして、試合を作る仲間として審判のことを見てきたのか。その姿勢に疑問を持たざるを得ない。果たして、エンパシーが無いのは誰のせいなのか?

選手は「試合に人生をかけてプレーしている」と言う。それは審判も同じだ。今回、大誤審に絡んでしまった審判は、しばらく割当停止になるだろう。過去に大きな誤審をした審判も、数カ月にわたって試合から外された。

審判は試合ごとに給料が支払われるので、割当停止になれば、生活費が困窮する。「人生をかけて試合に臨む」のは何も選手だけではないのだ。それを特別だとは思わないでほしい。身体一つで戦い、一瞬のプレーですべてを失うリスク。むしろ本来は選手こそ、審判の苦しい立場をわかってやれるはずなのに。

PR(プロ審判)としてJFAと契約している審判は、主審10人、副審3人だけ。多くの審判はそれ以外に仕事を持っており、定時終了後にプライベートを削り、トレーニングに励んでいる。そして休日は試合へ。

フィジカルテストをクリアする肉体を作り上げ、試合でも実績を積み重ね、少しずつステップアップする。そして狭き門をくぐり抜けた審判が、J1の舞台に立つ。このような過酷な生活のため、家庭が破綻する審判も少なくないと聞く。

おまけに、それだけの努力をしても、誰にも感謝されず、リスペクトもされない。はっきり言って、サッカーの審判は誰もやりたがらない汚れ仕事だ。筆者はさまざまなサッカーの仕事を取材してきたが、正直、審判ほど厳しい仕事はない。強い信念とサッカー愛が無ければ、こんな仕事は出来ないし、続けられない。

イングランドのサッカーでは、試合が終わった後、選手や監督は審判に対して「Well, done. Thanks」と声をかけると聞いた。しかし、審判のパフォーマンスが悪ければ、「Well, done」とは言わない。「Thanks」だけ。あるいは、「ありがとう。でも判定は間違ってたけどね!」といった声をかけるそうだ。このような関係を『サッカーファミリー』と呼ぶのだろう。私はドイツでもさまざまなカテゴリのサッカーを見てきたが、試合後にクラブハウスで飲み食いしながら語らうとき、そこに審判がいるのが普通だった。試合を作る仲間なのだ。

だが、このような態度で審判と接する選手は、Jリーグでは一握り。寂しいことだ。プロに限らず、市井のサッカーでも、審判との距離の近さ、リスペクトを感じることはほとんどない。審判団はいつも孤独。寂しいことだ。

勘違いしてほしくないが、審判のパフォーマンスに対する厳しい視点、批判は絶対に必要だ。しかし、そこには一定のリスペクトと、共に試合を作り上げる仲間としてのエンパシーが無ければ、成立しない。自分のことを理解しようともしない輩が、粗暴に放つ言葉など、いったい誰が聞き入れようとするのか。言えば言うほど、サッカーが断絶するだけだ。

こんな状況ではダメ。審判に対する発言は、仲間に対する叱咤激励と同じものであってほしい。審判もサッカーファミリーであると、きちんと認めてくれるのなら。

VARやゴールラインテクノロジーなど、テクニカルな議論も大事だが、エンパシーを断絶させた上でテクノロジーを導入すれば、サッカーは揉め事と共に、魅力も失うかもしれない。

あのピッチの中で、人と人がどうあるべきか。この試合はJリーグだけでなく、日本のサッカー全体に大きな問題を提起した。

サッカーライター

1979年12月1日生まれ、岐阜県下呂市出身。プレーヤー目線で試合を切り取るサッカーライター。新著『サッカー観戦力 プロでも見落とすワンランク上の視点』『サッカーは監督で決まる リーダーたちの統率術』。既刊は「サッカーDF&GK練習メニュー100」「居酒屋サッカー論」など。現在も週に1回はボールを蹴っており、海外取材に出かけた際には現地の人たちとサッカーを通じて触れ合うのが最大の楽しみとなっている。

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