誤審だけでなく、すっきりしない試合。日本対オマーンは『エンパシー』が欠けていた
ピピピピッ!!! ピピピピピッ!!! ピピピピピピッ!!!
おいおい、そんなに何度も吹かなくても……。
アジアカップ2019のグループリーグ、日本代表対オマーンの試合は、耳をつんざくような審判の笛の音が、終始鳴り響いていた。「ピッ」では終わらない。「ピピピピピッ! ピピピピピッ!」と長く、しつこく鳴っている。
時計の針が進むに連れて、徐々にオマーンはラフプレーが増えたが、とはいえ全体的にはそれほど荒れた試合ではなかった。少なくとも前半の中頃までは、両チーム共に落ち着いてプレーをしている。ところが、そんな雰囲気にフィットしない、主審の過剰な笛。違和感を覚えたのは私だけではなかったはず。
32才のマレーシア人主審、モフド・アミルル・イズワン・ビン・ヤーコブ氏は、原口元気が得たPKと、長友佑都の見逃されたハンドリングにおいて、2つの決定的なミスを犯した。どちらも日本有利に働き、1-0で勝利している。同主審の評価は下がり、今後の試合の割り当てに影響するだろう。
だが、その局所的な判定ミス以上に、私が気になったのは、より“フットボールな部分”だった。
審判に求められる『エンパシー』
昨年、私は『フットボール批評』の連載で、JFAレフェリー戦略経営グループ・シニアマネージャーのレイモンド・オリヴィエ氏をインタビューさせて頂いた。レイモンド氏は、PGMOL(イングランド審判機構)で、プロ審判開発部長を務めた人物である。
氏が言うには、フットボールの審判には『エンパシー』が必要である、と。
エンパシーとは『共感』。試合に、選手に、共感するということだ。
選手が犯すファウルには、色々な種類がある。たとえば、決してファウルをするつもりはなくても、予想外な形で相手とぶつかり、結果としてファウルを取られる場合がある。選手としては、「あっ、しまった!」と自覚した状態だ。気持ちは落ち着いており、判定を受け入れる覚悟も出来ている。過剰な笛や、多くの言葉は必要ない。
そんなとき、うまい主審は「ピッ」と短く笛を吹き、ゆっくりと近づく。そして軽く目配せ。すると、選手はバツが悪そうな顔でポジションに戻ったり、あるいは倒れた相手を自主的に起こそうとしたりする。まさしく『エンパシー』である。試合に、選手に、共感したレフェリング。うまい主審はそんなふうに試合をコントロールする。
その一方、選手がまったく納得していなかったり、態度が悪かったりと、反省が見られない場合もある。ヒートアップして荒れそうな展開もある。そんなときはもちろん、「ピピピピピッ!!!」と、強い笛で叱りつけてもいい。落ち着けとジェスチャーで伝える。判定の説明をする。必要があれば、カードも用いる。これもまた『エンパシー』である。うまい主審は、笛の吹き方一つにメッセージがある。
ところが、今回の主審ヤーコブ氏は、一から十まで「ピピピピピッ!! ピピピピピッ!!」だった。少なくとも序盤、試合の温度は落ち着いていたのに、主審は過剰なアラートを発し、1人だけピリピリと温度が高かった。私にはまるで、囚人を見張る看守のように感じられてしまう。そんな笛の吹き方が、必要だったのだろうか。
また、スローインを交代しようとした堂安律に、“前半から”遅延行為のイエローカードが出されたが、あのシーンも象徴的だ。果たして、そんな意図が堂安にあったのか? 前半のうちから、神経質すぎないか? それは試合に共感したレフェリングなのか? あれがイエローカードなら、スロワーの交代自体が不可能になってしまう。
よく対応したが…
この抑止力の強いレフェリングに、日本の選手はよく対応したと思う。だが、その表情は常にこわばっていたし、特に後半は、遅延などで誤解される行為にならないように、やりすぎなほど気を使っていた。その姿は、まるで親に怒られないことだけを目標に、良い子を演じなければならない子供のよう。そんな共感の低い試合を見ることが、私は1人のサッカーファンとして、悲しかった。
若いヤーコブ氏は、国際大会で何度も笛を吹いてきたが、アジアカップは初めての経験。トルクメニスタン戦で笛を吹いた、アリレザ・ファガニ氏とは雲泥の差がある。初めての舞台で、プレッシャーも、期待も、相当強かったのだろう。それがあの笛につながったのかもしれない。
だからこそ、改めて言いたい。サッカーの審判に求められる本質を。試合に、選手に、共感することを。追加副審やVARなど、最新の制度やテクノロジーがどんどん導入される現代だからこそ、失いがちなものがある。
エンパシーがないサッカーなど、味気ないし、つまらない。感情のエンパシー。それが私たちの愛する『サッカー』ではないだろうか。
判定ミスの云々だけではない。サッカーの原点を回顧したくなる試合だった。