得失点差がプラスなのに最下位の球団は、2度とも「エイプリル・フール生まれの監督」が采配を振っていた
2リーグ制となった1950年以降、シーズンの得失点差がプラスだった――得点が失点よりも多かった――にもかかわらず、リーグ最下位に沈んだ球団は、1994年の横浜ベイスターズと1998年の千葉ロッテマリーンズだけだ。両球団の得失点差は、それぞれ、+8(543得点/535失点)と+18(581得点/563失点)だった。1994年の横浜は61勝69敗(勝率.469)で、4位タイのヤクルト・スワローズと阪神タイガースとは1ゲーム差。1998年の千葉ロッテは61勝71敗3分(勝率.462)で、5位の近鉄バファローズに4.5ゲーム差をつけられた。
本来なら勝ち越していてもおかしくなかった両球団とも、監督として采配を振っていたのは近藤昭仁だ。この奇妙な記録と関係があるかどうかはわからないが、今から83年前、近藤は1938年のエイプリル・フールに生まれた。近藤が指揮を執った1998年の千葉ロッテは、プロ野球最長の18連敗も記録している。
また、1944年4月1日生まれの佐野嘉幸と1969年4月1日生まれの関川浩一は、同じ珍記録に名を連ねている。対戦した両球団のスターティング・ラインナップの同じ打順に、すべて同じポジションの選手が揃った試合だ。最近では、昨年9月22日に阪神と横浜DeNAベイスターズが対戦した試合がそうだった。どちらも1番から順に、センター、二塁手、ライト、レフト、三塁手、一塁手、捕手、遊撃手、投手が並んだ。
見つかった限りだが、佐野は1966年と1968年に1試合ずつ、関川は1997年に1試合、それと同じようなスターティング・ラインナップの試合に先発出場している。打順8番に座り、マスクをかぶった関川と「シンクロ」したのは、現・阪神監督の矢野燿大だ。当時の登録名は「輝弘」。中日ドラゴンズでプレーしていた。この年のオフ、関川と矢野は2対2のトレードで球団を入れ替わった。
エイプリル・フールに生まれたメジャーリーガーについては、こちらで書いた。