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親子で分かり合えないのはなぜ?「ある哲学者の視点」

ひとみしょう哲学者・作家・心理コーチ

親子で分かり合えない「分かり合えなさ」については、しばしば「甘え」という言葉を用いて説明されます。例えば、親が子に自分の価値観を押し付けるのは親の子に対する「甘え」ゆえに、子を独立した個人として見ていないからだ、とか。あるいは、子が親に反発するのは「反発することで親に自分の真意をわかってもらえるだろう」という未分化ゆえの「甘え」があるからだ、とか。

しかし、果たしてそれは本当でしょうか。

150年以上続く「難問」

例えば、実存主義の父であるキルケゴールは、レギーネという女性とやっとの思いで婚約をとりつけます。しかし、その翌年、みずからとりつけた婚約をみずから破棄します。

この事実は、彼の日記に書かれています。しかし彼は、なぜ婚約破棄をしたのかを明確に書いていないので、後世のキルケゴール研究者における難問となっています。

ある哲学者は、彼は「倫理よりも重要なもの」が私たち人生を司っていると主張したかったのではないか、と言います。

私もそう思います。

自分から申し出て成立させた婚約であれば、それを正しく履行し、終生添い遂げるべし。倫理はそう主張することを、みなさんよくご存知でしょう。

しかしキルケゴールはそうしなかった。自分にとっての、というか、自分にしか理解できないなんらかの気持ちに彼は従った。その結果、不可解な婚約破棄という事実が残った。

親子で共有できるもの、できないもの

倫理とは言葉をとおして他人と共有できるものです。高齢者に席を譲ろう。悪いことをしてはいけない。親子は仲良くすべきだ……。

他方、自分にしか分からないなんらかの思いは、他者と交換不可能です。例えば、映画を見たあと、「私も映画の主人公のように世界的なピアニストになるぞ」と決意した女性がいます。彼女はピアノなど弾いたことがありません。しかも30歳です。「今からピアニストに?」周囲の人たちは彼女にそう言います。当然でしょう。しかし彼女は、翌日からピアノのレッスンに通いはじめ、今では町の音楽教室のアルバイト講師をしています。そして今でも「いつかは世界的なピアニストになる」と大真面目に思っているそうです。

言葉を使って他者と交換できないなんらかの思いを、キルケゴールは永遠という言葉で表しました。崇高さと邪悪さを両極に有する、完全に言葉にできない気持ちを、彼は永遠と呼んだのでした。

親子で分かり合うために

親子ともに「永遠」を心に宿しています。子が親に「私の親は私のことをどうして分かってくれないの?」と思う時、その気持ちは子の永遠から発せられ、親の倫理という壁にぶつかって敗れたのです。

また、親が子に向かって「うちの子はなぜ勉強しないのだろう。いい大学に行かないと将来まともな生活ができないとあれほど言って聞かせているのに」と思う時、親の倫理は子の永遠にぶつかって敗れたのです。

心がちょっと重たくなったら心療内科に行ってお薬をもらうことが「常識」になっている現代社会に生きる私たちは、知らず知らずのうちに科学に首までどっぷり浸かっていると言えます。科学とは言葉と数字で割り切ることのできる世界です。他方、「永遠」は完全に言語化し得ない何かです。

親も子も、みずからの心に永遠を宿している以上、完全には分かり合えないのです。まずは自分の心に宿る永遠が具体的に何なのかを知ろうと試みてはいかがでしょうか。すると、相手の心に宿る永遠がぼんやりと見えてきます。

言葉で十全に表現できない気持ちを互いに想像しあうところに、親子関係のスイートスポットがあるように思います。

哲学者・作家・心理コーチ

8歳から「なんか寂しいとは何か」について考えはじめる。独学で哲学することに限界を感じ、42歳で大学の哲学科に入学。キルケゴール哲学に出合い「なんか寂しいとは何か」という問いの答えを発見する。その結果、在学中に哲学エッセイ『自分を愛する方法』『希望を生みだす方法』(ともに玄文社)、小説『鈴虫』が出版された。46歳、特待生&首席で卒業。卒業後、中島義道先生主宰の「哲学塾カント」に入塾。キルケゴールなどの哲学を中島義道先生に、ジャック・ラカンとメルロー=ポンティの思想を福田肇先生に教わる(現在も教わっている)。いくつかの学会に所属。人見アカデミーと人見読解塾を主宰している。

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