シリアのイドリブ県で戦闘が激化するなか、政府軍が再び化学兵器攻撃か?
シリア北部のラタキア県で5月19日、シリア軍が化学兵器を使用したと報じられた。新たな攻撃が行われたとされるのは、イドリブ県との県境に位置するクルド山地方カッバーナ村のクバイナ丘で、攻撃に使用された砲弾3発には塩素と思われる有毒物質が装填されていたという。
第一報を伝えたイバー・ネットとは?
ニュースはイバー・ネットを名のるサイトが配信し、反体制系のメディアと活動家がネット上で拡散した。
ベルギーに拠点を置き、シリア軍の化学兵器使用を追及してきた反体制系NGOの化学兵器違反記録センター(CVDCS)も、複数の目撃者や医師の証言として、砲弾が爆発した直後に黄色の煙が上がり、少なくとも4人が目の充血や呼吸困難といった症状を訴えたとする報告書を発表した。
このうち、イバー・ネットはシャーム解放機構に近いとされるサイトである。このシャーム解放機構が何者かについては、シリア内戦への関心がすっかり低下するなかで、忘れられてしまっているかもしれない(あるいは、そもそもその存在さえ知られていないかもしれない)。だが、彼らこそがシャームの民のヌスラ戦線、すなわちシリアのアル=カーイダの後身組織だ。
シャーム解放機構はテロ組織か?
ヌスラ戦線はそもそもはイラクのアル=カーイダであるイラク・イスラーム国のフロント組織として活動を開始した。2013年4月に彼らと袂を分かったイラク・イスラーム国が、イラク・シャーム・イスラーム国(ISIS、ISIL、2013年4月)、さらにはイスラーム国(2014年6月)に名を変え、アル=カーイダから破門(2014年2月)を言い渡されたのとは対象的に、ヌスラ戦線は当初、アル=カーイダに忠誠を誓い続けることで存在を誇示しようとした。
だが2016年7月、いわゆる自由シリア軍諸派との共闘を強め、劣勢を打開するためにアル=カーイダとの絶縁を宣言、組織名をシャーム・ファトフ戦線に変更した。さらに2017年1月には、バラク・オバマ前米政権の支援を受けていた「穏健な反体制派」と糾合し、現在の組織名、すなわちシャーム解放機構を名のるようになった。
シャーム解放機構を国際テロ組織アル=カーイダとみなすことについては賛否両論がある。オバマ前政権は2012年12月に、ヌスラ戦線をFTO(外国テロ組織)に指定、国連も2013年5月にアル=カーイダ制裁委員会リストに追加登録した(いずれも当初はアル=カーイダの別名として登録)。
だが、欧米諸国が長らく「シリア国民の唯一の正統な代表」とみなしていたシリア国民連合(連立)をはじめとする反体制派のなかには、「もっとも成功した反体制派」(The Washington Post, November 30, 2012)だったヌスラ戦線をテロ組織とみなすことに異議を唱える者が少なくなかった。
シャーム解放機構は、名称変更後もしばらくはテロ指定を免れた。だが、米国務省は2018年5月、シャーム解放機構をFTO、SDGT(特別指定グローバルテロ組織)に指定(ヌスラ戦線の別名として登録)、トルコも同年9月に彼らをテロ組織とみなす政令を施行した。国連のアル=カーイダ制裁委員会リストにも、シャーム解放機構はヌスラ戦線の別名として登録されている。
社会通念上、そして国際法上、シャーム解放機構はアル=カーイダで、国際テロ組織とみなし得ると断言してよいだろう。
シリア・ロシア両軍による激しい攻撃再開
クバイナ丘での塩素ガス使用疑惑は、シリア・ロシア両軍が、イドリブ県を中心とする反体制派支配地域、すなわち緊張緩和地帯第1ゾーンへの爆撃を強め、シリア軍地上部隊が同地への進攻を開始するなかで浮上した。
シリアにおける停戦の保障国であるロシアとトルコは2018年9月、緊張緩和地帯とシリア政府支配地域の境界に非武装地帯を設置することを合意、トルコはそこから過激派(シャーム解放機構など)を排除することを誓約した。攻撃は、トルコがこの合意を履行しない(できない)ことに業を煮やすかたちで始められ、4月30日以降に激しさを増していった。
シリア・ロシア両軍は、学校、病院、ホワイト・ヘルメットの拠点、さらには民家を狙った。シリア人権監視団によると、5月19日現在、492人の死亡が確認されており、うち173人が民間人だという。また国連によると、15万人が爆撃・砲撃や戦闘を避けて家を離れ、その一部は「オリーブの枝」地域、「ユーフラテスの盾」地域と呼ばれるトルコ占領下のアレッポ県北西部への避難を余儀なくされているという。
イドリブ県は誰の手の中にあるのか?
英仏独の外務省は5月13日の共同声明で、「住宅地への爆撃」、「無差別砲撃」、「樽爆弾」、「学校や医療センターへの攻撃」、「国際人道法へのあからさまな違反」といった言葉を連ねて、ロシアとシリア政府を非難した。だが、こうした非難が当てはまるほど、事態は単純ではない。
反体制派の最後の牙城とされるイドリブ県およびその周辺地域は、トルコ占領下のアレッポ県北西部とともに、シリア軍に敗れても、なお抵抗を続けようとする反体制派とその家族が身を寄せて、在外活動家がその自由と尊厳のために連帯を呼びかける場所である。
同地では長らく、地元評議会、自由警察、そしてホワイト・ヘルメットなどと称する活動家たちが、それぞれの市町村の自治、治安、そして医療などの福祉を担い、多くの反体制武装集団がこれに混在していた。そのなかには、シャーム解放機構のほか、トルキスタン・イスラーム党など外国人を主体とする武装集団、フッラース・ディーン機構といった新興のアル=カーイダ系組織もおり、彼らは自由シリア軍諸派や革命家を自称する活動家と離合集散を繰り返しつつ、一定の秩序のもとで共生してきた。
2019年1月になると、筆者が「反体制派のスペクトラ」と称してきたこうした状況に新たな変化が生じた。シャーム解放機構と自由シリア軍国民解放戦線が支配領域をめぐって抗争を激化させ、シャーム解放機構が緊張緩和地帯第1ゾーンのほぼ全域の治安・軍事権限を掌握したのである。
国民解放戦線は、トルコの支援を受けて2018年5月に結成された連合体で、シリア・ムスリム同胞団の系譜を汲むシャーム軍団、アル=カーイダの系譜を汲むシャーム自由人イスラーム運動、そしてオバマ前政権の支援を受け、かつてはシャーム解放機構に参加していたヌールッディーン・ザンキー運動などからなっていた。抗争に敗れた彼らは、一部が非武装地帯に残留し、シャーム解放機構の指揮下で活動を継続する一方、主力部隊はトルコ占領地域に移動した。
シャーム解放機構はまた、シリア救国内閣(2017年11月に結成)を名のる集団に支配地域の自治を委託した。それまで各地の自治、治安、福祉を担ってきた地元評議会や自由警察は新たな秩序への対応に腐心した。唯一、ホワイト・ヘルメットだけがシャーム解放機構と行動を共にすると明言した。
イスラーム国が国家建設をめざしたのとは対象的に、シャーム解放機構は中央集権的な統治体制を確立しようとしない点で巧みだ。だが、最近では欧米メディアでも、イドリブ県が「シャーム解放機構の支配下にある」と報じるようになっており、この事実を踏まえることなくして、事態を的確に理解することはできなくなっている。
欧米諸国に向けた悲痛な叫び
とはいえ、日本や欧米諸国では、イドリブ県に対するシリア・ロシア軍の攻撃は大きく報じられてはいない。これらの国が、好むと好まざるとにかかわらずアル=カーイダを支援してきた自らの過去を清算しようとしているからだ――そうした穿った見方をするかどうかはともかく、イバー・ネットの報道は、シリアの惨状に目を向けるよう訴える悲痛な叫びに見える。なぜなら、2017年4月と2018年4月のシリアに対する米国(そして英国、フランス)のミサイル攻撃を思い起こせば明らかな通り、欧米諸国が、反体制派の救世主よろしく、シリア政府に対して強硬な対応をとるきっかけ(口実)は、化学兵器しかないからだ。
イバー・ネットは、イスラーム国に近いアアマーク通信と同じくプロパガンダ機関で、発信する情報には疑わしいものが多い。シリア軍総司令部とロシア国防省は、報道内容が事実ではないと即座に否定している。また、欧米諸国の主要メディアも真剣にとりあおうとはしていない。
真相は依然として闇のなかだ。だが、これまでの経緯を踏まえた場合、仮にシャーム解放機構がウソをついている、あるいはシリア軍が塩素ガスを使用したと見せかけていたとしたら、それは、欧米諸国に対してこれまでと同じように厳しい対処で望むことを誘う動きだと解釈できよう。
一方、シリア軍が使用した場合のメリットについて考えることも無意味ではない。シリア軍が実際に攻撃を行っていたとするなら、それは、欧米諸国の限定的介入の無意味さ、そしてシャーム解放機構との結託を印象づける狙いがあると言え、それはそれでシリア政府にとっては都合が良いからだ。
化学兵器使用疑惑が再浮上することの意味
シリアでの化学兵器使用疑惑をめぐっては、最近になって、2018年4月のダマスカス郊外県ドゥーマー市での事件にかかる化学兵器禁止機関(OPCW)の機密文書(エンジニアリング・アセスメント)がリークされている。
OPCWは2019年3月に発表した最終報告書(S/1731/2019)のなかで、塩素ガスと思われる有毒物質を装填したシリンダーが使用されたと信じるに足る「合理的根拠」(reasonable grouds)があると結論づけるとともに、このシリンダーが空中から投下されたと指摘、シリア軍による関与を示唆していた。だが、リークされた機密文書は、塩素ガス攻撃に使用されたとされるシリンダーは、その軽微な損傷ゆえに発見現場に「手作業で置かれた」(manually placed)可能性が高いと指摘していたのである。
最終報告書に盛り込まれることのなかったこの文書をリークしたのは「シリア、プロパガンダ、メディアに関する作業グループ」(Working Group on Syria, Propaganda and Media)で、シリア軍の化学兵器使用について疑義を呈してきたジャーナリストのヴァネッサ・ビーリー氏らが参加する組織だ。「アサド政権支持者」との非難を浴びるグループが発信源で、機密文書を作成したというイアン・ヘンダーソン氏なるOPCWの重鎮が、現地調査団ではなかったとの情報が錯綜するなかで、機密文書が偽者だとする見方も散見される。
真偽はともかく、ラタキア県での塩素ガス使用疑惑であれ、OPCW機密文書であれ、シリアで使用される化学兵器は、軍事的効果以上に政治的効果を狙ったものであることだけは、誰の目にも明らかだ。そして、こうした効果が期待されるのは、常に反体制派が窮地に立たされている時であり、紛争の当事者たちは、こうした状況下で、化学兵器使用(疑惑)にさまざまな政治的意味を与えようと躍起になっているようである。