“北欧の至宝”が暴君、自然、自己矛盾と戦う。映画『ザ・プロミスト・ランド』
あらかじめお詫びしておく。
マッツ・ミケルセンを“北欧の至宝”呼ばわりするのは恥ずかしいが、この作品、類似名の作品があって紛らわしく、デンマークの開拓史というテーマも地味で、昨年のベネチア国際映画祭に出品するも受賞できずで、話題性が乏しいのでマッツ様のお力を借りることにした。
『The Promised Land』は“マッツが出ているデンマーク製の西部劇”として見るのが、正しい。
「西部劇」とはニコライ・アーセル監督の評。不毛の地を開拓するに当たり、マッツが苦悩し屈辱を味わい打ちのめされるも、不屈の精神で立ち上がる、というシンプルなお話である。
以下、この作品を見るべき理由を説明する。
①とんでもない暴君がいる
悪役がまあ絵に描いたようなワルで、残虐、非道、同情の余地がゼロ。しかも権力者ときている。買収、殺人、誘拐、拷問……すべての手を使ってマッツの開拓の邪魔をする。次々と繰り出してくる妨害行為が「物語の進行役」となっているわけだ。
あなたはマッツの敵役を激しく憎むであろう。悪役が、演技の上でも脚本の上でも演出の上でもきちんと悪役なので、私たちは遠慮なく安心して憎み、何らかのスカッとする結末を期待するようになる。
②自然がとんでもなく過酷
北海道になぜジャガイモ畑が多いかというと、開拓史と大いに関係があるそうだ。ジャガイモはやせた土地でも寒冷地でも栽培できるから、開拓に向いていた。ドリルでも掘削できない岩だらけのデンマークの荒れ地でも、ジャガイモなら唯一収穫することが可能だった(ジャガイモでダメなら何をしてもダメ)。
ただし、放射冷却で起こる霜には弱いようで、映画の中でも霜害のシーンが出てくるし、ジャガイモは獲れてもそれ以外の作物が獲れないので、開拓者の食料を賄うのに十分なジャガイモに加えて、翌年の種いもに回す十分な収穫量がないと開拓生活を維持できない。
いかにジャガイモが強い作物でも、消耗戦になって開拓者が先にへばってしまえば開拓は失敗に終わる。ジャガイモの収穫量と開拓者の人数と開拓地の面積が、右肩上がりになっていかないと成立しない。
というわけで、残虐な暴君に加えて容赦ない自然の方も、主人公に試練を与え続けることで物語の進行役となる。
③マッツの内面の矛盾
マッツ演じる主人公はバスタード(bastard=私生子。本作の場合はおそらく貴族のそれ)である。王侯貴族ではない。
原題が『Bastarden』であるのは、この生まれからきている。彼は自分の生まれを恥じ、王に開拓地を献上して貴族の称号を授けられることを夢見ている。
この称号や家柄への執着というのは日本人には実感できない部分だ。あんなに死ぬほど苦労するのなら別に貴族になんかなりたくない、と私なら思う。
とはいえ、北野武監督の最新作『首』にも侍になるのに手段を選ばない百姓の茂助というのが出てくるから、あんな感じなのかと想像することはできる。
主人公のモチベーションは貴族になること。生まれによって差別された貴族に憧れる、という矛盾した内面を抱えているわけだ。
だから、マッツは社会的な意味ではヒーローになり得ない。
彼の目的は、小作人たちを解放して貴族制を解体することではなく、自分が貴族になって小作人を従えることだから。もちろん、苦楽を共にしたことで暴君にはならず、情け深い領主にはなるのだろうが……。
④おまけ。多様性の無さは賞獲りに不利?
この作品は、アカデミー賞の国際長編映画賞候補のリスト入りした(本ノミネートは1月23日発表)。
ベネチア国際映画祭の会見で、人種的な多様性の無さについて指摘する声が上がった。北欧系の白人しか出てこないことがアカデミー賞獲りに不利ではないか、という質問だった。
ナンセンスな話だ。
舞台が18世紀のデンマーク開拓地なのだから、ほとんどの登場人物が北欧系白人なのは当たり前(ジプシーの少女が唯一の例外)。これは『ゴジラ-1.0』に多様性が無いとか女性の活躍の場が少ない、と指摘するのと同じ。そりゃそうだろ。戦後すぐの日本が舞台なんだから。
『パラサイト 半地下の家族』は韓国人しか出てこないけど、ちゃんと作品賞と国際長編映画賞のダブル受賞をしている。
※写真提供はサン・セバスティアン映画祭