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【戦国こぼれ話】真田昌幸は子の信繁に「打倒家康」の秘策を本当に授けたのか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
真田信繁は、亡き父・昌幸の作戦を進言したが、拒否されたと伝わる。(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

■真田昌幸に秘策はあったのか

 安倍前総理から菅総理に変わったが、早くも衆議院を解散し、選挙を実施するとの風聞が流れている。各政党では候補者選びのみならず、特に野党は「選挙必勝の秘策はないか!」と頭を悩ませているはずである。それは、「打倒家康」に執念を燃やした真田昌幸も同じで、常に秘策を考えていた。

 しかし、生活にゆとりのなかった昌幸は、「打倒家康」を考えたとは思えず、許しを乞う状況にあった。この点は以前に取り上げた。こちら。とはいえ、死の間際になった昌幸は、信繁に家康に勝つための秘策を与えたといわれている。

■作戦に余念がなかった昌幸

 『武将感状記』によると、昌幸は常日頃から豊臣方と徳川方に合戦があれば、豊臣方に与して家康を攻め滅ぼそうと考えていた。囲碁好きの昌幸は、囲碁を戦いの備えや人員配置に置き換え、合戦の準備に余念がなかった。ところが、やがて昌幸に死期が訪れ、「打倒家康」も叶わず、子の信繁に作戦を授けたというのだ。

 昌幸は死に臨んで、自身の秘策を実行できないことを悔しがっていた。信繁はぜひ教えて欲しいと懇願するも、昌幸は信繁にできるはずがないと拒絶。しかし、信繁のたび重なる懇請により、ついに昌幸も根負けした。話の内容は、以下のとおりである。

 昌幸は3年も経たないうちに、徳川方と豊臣方は合戦になり、豊臣方は必ず自身を招くと予想した。昌幸は約2万の兵を率いて青野ヶ原(岐阜県大垣市)に出陣し、徳川方の軍勢を防ぐと説明したあと、その意図を信繁に問うた。

■信繁もわからなかった作戦

 信繁はしばらく考え、昌幸の意図が理解できなかったものの、豊臣方の2万の兵は牢人(浪人)ばかりで、大軍である徳川方の精鋭の武者を防ぐことは考えられないと述べた。青野ヶ原は平坦な地で、守備には適していなかったからだ。昌幸の答えは、以下のとおりである。

 昌幸は自分のような名将が出陣すれば、家康は慌てて関東から奥州まで兵を募るので、その間に兵を引いて瀬田(滋賀県大津市)、宇治(京都府宇治市)で防御体制を築き、二条城(京都市中京区)を焼き払い、堅城の大坂城(大阪市中央区)に籠城すると述べた。

 その後、夜討ち朝駆けで徳川方の軍勢を悩ませば、徳川方に味方した武将も豊臣方に戻るに違いなく、最後は徳川方を100里(約400キロメートル)の外に押し返すことが可能だというのである。

 仮に、信繁が大坂城に籠もり、昌幸と同じ作戦を提案しても、豊臣方の重臣・大野治長・治房兄弟は兵法を知らないので拒否すると述べた。また、治長・治房兄弟は軍勢を分散させ、無謀な戦いを挑んで自滅すると昌幸は予言し、信繁に以後の情勢をよく見ておくようにと述べた。その言葉は見事に的中し、昌幸の予言に間違いなかったというものだ。

■依拠した史料の性質

 ここまで触れた逸話は、事実なのだろうか。『武将感状記』(『砕玉話』とも)は、戦国時代から江戸時代初期の武将のエピソード集である。ユニークな話が多数収録されているのでよく知られており、歴史小説のネタ本にもなっている。

 同書は、正徳6年(1716)に肥前平戸藩士の熊沢猪太郎(熊沢淡庵)が執筆したものである。猪太郎は備前岡山藩士で陽明学者・熊沢蕃山の弟子というが、その経歴を裏付ける史料はなく、疑わしいとされている。 同書は大変おもしろいエピソードを紹介しているが、裏付けとなるたしかな史料が乏しく、史料的な価値は劣るとされている。

 実は、似たような作戦が『真田記』にも書かれている。昌幸は「私の命が今からあと3年あれば、たやすく天下を取って秀頼公に進上できたのに」と悔しさを滲ました発言をしているが、その作戦は出陣する場所が桑名(三重県桑名市)になっており、兵力は2万ではなく3000と少ない。ほかのストーリーはほぼ同じである。

■悲願が叶わなかった昌幸

 話を続けよう。昌幸は作戦を信繁に伝えると、途端に胸が苦しくなり、水を飲んだ直後に絶命するという劇的な最期で結んでいる。しかし、『真田記』では『武将感状記』のように、信繁が昌幸と同じ作戦を提案すれば、豊臣家の重臣が拒否するとまでは言っていない。

 慶長19年(1614)に大坂冬の陣がはじまると、信繁は大坂城に入城。信繁は昌幸の遺言である作戦を進言したが、最終的に昌幸から託された作戦は受け入れられなかった。話のポイントは、昌幸の提案ならば良いが、信繁は実績がないので拒否されるということである。

■信じがたい逸話

 ここまで述べた話は、よく知られた逸話で非常に劇的な内容であるが、事実として信じてよいのであろうか。その点をもう少し考えてみよう。

 そもそも『武将感状記』は信頼度の低い史料で、『真田記』も似たようなものである。冒頭で述べたとおり、昌幸の晩年はとても「打倒家康」を考えたとは思えず、病と経済的苦境で厳しい状況にあった。したがって、以上の逸話は、史実とみなし難いと考えられる。

 それにしても、各政党には昌幸のような、選挙に必勝する秘策はあるのだろうか?

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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