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藤原顕信の出家問題。藤原道長の息子には厳然たる出世の格差があった!?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
藤原道長。(提供:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「光る君へ」では、藤原顕信が突如として出家したので、母の源明子が嘆き悲しむ場面があった。藤原道長には正室の源倫子のほかに、側室の明子がいた。母によって、子には厳然たる出世の格差があったので、考えることにしよう。

 道長が倫子(源雅信の娘)と結ばれたのは、永延元年(987)のことである。倫子の父の雅信は左大臣を務めていたので、申し分のない家柄だった。倫子は、正室に位置付けられている。

 一方、道長が明子(源高明の娘)を側室に迎えたのは、その翌年のことである(異説あり)。明子の父の高明も左大臣を務めていたが、安和の変で失脚したのが大きな違いである。

 道長は、倫子との間に頼通、教通らの子をもうけた。明子との間には、頼宗・顕信・能信らの子をもうけた。しかし、倫子の子と明子の子とでは、昇進のスピードで大きな差がついた。それは、母が正室か側室かということが影響していた。

 寛弘8年(1011)10月、左衛門佐だった顕信は右馬頭に任じられた。同じ頃、三条天皇は道長に対して、顕信を蔵人頭にしたいと打診した。蔵人頭の藤原通任が参議に昇進したので、空席になったからだった。これは抜擢人事だったが、道長は断わったのである。

 道長が断わったのには、まだまだ顕信が力不足で人々の謗りを招くという理由があった。しかし、たったこれだけの理由だけではなく、これには別の事情もあったようである。

 寛弘8年(1011)、藤原道雅(伊周の子)、頼宗(道長の子)とその弟が悪口を言うことがあった。弟の名は明記されていないが、顕信であると考えられた。この一件が道長の心証を害したという説もある。

 ともあれ、道長が蔵人頭を辞退したので、顕信は強いショックを受けた。昇進の遅れなど将来に不安を抱いた顕信は、突如として比叡山に登り、出家したという(異説もある)。むろん、明子も嘆き悲しんだことだろう。

 明子の子は昇進に遅れがあったが、頼宗は従一位・右大臣に、能信は正二位・権大納言まで最終的に昇進した。当人がこれで満足したか不明だが、顕信も我慢していれば、それなりに昇進していた可能性はあっただろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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