藤原道長に災難が続く。5人の公卿は本当に道長の病気を喜んだのか?
今回の大河ドラマ「光る君へ」では、藤原道長が病気になって苦しむ場面があった。これを知った5人の公卿が喜んだという。その辺りの事情について考えることにしよう。
ことの発端は、寛弘9年(1012)1月に道長の子の顕信が出家すべく、比叡山に登ったことだった。顕信は蔵人頭になれなかったので、将来を悲観して出家したという(異説あり)。かねて出家の願望を持っていた道長は、子に先を越されたので、酷く落胆したといわれている。
同年5月、比叡山延暦寺で顕信の受戒が行われることになり、道長も参列すべく比叡山に向かった。しかし、道長は騎馬で比叡山に登ったので、法師から石を投げつけられたり、馬から引きずり降ろせと言わたり、さんざんな目に遭った。
道長が騎馬で比叡山に向かったのは、徒歩で行くのがつらいからだった。このとき道長は40代の半ばを過ぎていたが、当時としてはそれなりに高齢だった。道長にとって、石を投げつけられるなど、心外な出来事だったに違いない。
この話を耳にした藤原実資は、日記『小右記』の中で「後代の大恥辱である」と手厳しく批判した。いかに道長が体力的につらくても、先例にならって歩いて比叡山に行くべきだと思ったのだろう。実資は、筋を通す人物として知られていた。
その後、道長は重篤な病に罹り、食べ物を口にできないほどの状態になった。職務の遂行が不可能と思った道長は、三条天皇に官職を辞したいと申し出たほどだった。道長が病気になったのは、騎馬で比叡山に行った祟りだと噂された。
道長が病気になったことを知ると、藤原道綱、藤原実資、藤原隆家、藤原懐平、藤原通任の5人の公卿が喜んだという噂が流れた。道綱は母が違うとはいえ、道長の兄弟なのだから驚きである。しかし、道長は少なくとも道長と実資は違うだろうと述べている。
道長が病気になったのが祟りであるとか、あるいは5人の公卿が道長の病気を喜んだというのは、にわかに信じがたい。とにもかくにも、道長にとって不幸なことが続いたのは事実である。