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【戦国こぼれ話】真田昌幸は「打倒家康」を悲願としていたのか?実は貧困と病気で苦しんだ悲惨な晩年。

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
真田昌幸は上田城に帰りたいと願ったが、ついに思いは届かなかった。(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

■九度山に逼塞した真田昌幸

 慶長5年(1600)9月、徳川家康は関ヶ原で西軍を打ち破り、天下取りの道を切り開いた。しかし、信濃上田城(長野県上田市)に籠城し、西軍に味方した真田昌幸・信繁父子は無念にも敗北。昌幸・信繁父子は、家康から紀伊九度山(和歌山県九度山町)への蟄居を命じられた。映画やテレビ、小説などによると、九度山に蟄居した昌幸・信繁父子は、「打倒家康」を悲願として、日々作戦を練っていたという。果たして、その話は事実であると考えてよいのだろうか?

■弱気だった昌幸

 九度山で過ごしていた昌幸は、たびたび手紙を書いていたが、その内容は意外にも至って弱気である。

 慶長8年3月15日、昌幸は故郷の信綱寺(しんごうじ。長野県上田市)に書状を送った(「信綱寺文書」)。その内容とは、本多正信(家康の家臣)を介して家康に赦免を願うという趣旨のものだ。昌幸は「打倒家康」を悲願としていたように思われていたので、ただ驚くばかりである。

 どうやら昌幸は「打倒家康」を考えておらず、逆に許してもらおうとしたようだ。慣れない土地での生活は厳しく、昌幸は一刻も早く故郷へと戻りたかったのだろう。この書状からは、昌幸の赦免を乞う哀れな姿が思い浮かぶだけで、「打倒家康」という闘志を感じることはできない。

 また、昌幸は金にも困っていたらしく、この書状の追伸部分には信綱寺から2匁の送金があったことが書かれている。昌幸は、信綱寺の心遣いに大変感謝していた。

 慶長8年1月9日、昌幸は人を介して願主となり、豊国社(京都市東山区)に銀子7枚を奉納した。昌幸の依頼を受けたのは、関ヶ原牢人と懇意にしていたという秀吉の正室・北政所だった(『梵舜日記』)。とにかく昌幸は復権を画策して、なりふり構わず家康や北政所にすがりついたのだ。

 ところが、昌幸の努力は実ることなく、九度山から故郷の上田に帰ることは叶わなかった。家康の凄まじい怒りは、容易に解けなかったのだ。同じ頃の昌幸は、厳しい経済的な事情で苦しんでいた。

■昌幸の苦しい生活

 一大名から転落した昌幸の経済的な基盤は、どうなっていたのであろうか。昌幸は国許の信之から支援を受けており、信之の妻から鮭を送られることもあった。また、紀州藩や蓮華定院(和歌山県高野町)などからも支援があり、紀州藩主の浅野長晟(ながあきら)から毎年50石を支給されていた(『先公実録』など)。なお、先述した信綱寺からの銀子2匁は、臨時収入だったのだろう。

 年不詳1月5日付の昌幸の書状(宛名欠)には、昌親(昌幸の三男)から臨時の扶助金40両のうち20両が送金されたと書かれている(「真田神社文書」)。とりあえず半分の20両が昌幸に送金されたが、まだ20両も不足していた。40両は、現在の貨幣価値で約400万円である。

 加えて昌幸には多額の借金があり、返済に困っていたため、すぐに残りの20両の送金を昌親に依頼した。準備が出来次第送金して欲しいと書いているので、昌幸はかなり経済的に困窮していたようだ。つまり、昌幸の生活は、周囲の経済的支援がなければ成り立たなかったのだ。

 昌幸の生活は経済的に厳しかったのだから、とても「打倒家康」を考えるゆとりはなかったと考えられる。むしろ、お金のことばかり考えていたのかもしれない。

■病気で苦しむ昌幸

 昌幸の晩年は、病気との闘いであったといえる。慶長5年の時点で、昌幸は54歳。まだ、そんなに老ける年齢ではない。しかし、年月の経過とともに、昌幸の心身は蝕まれていった。年未詳(慶長15年頃)3月25日付の昌幸書状(信之宛)には、昌幸が病に苦しんでいた様子が克明に書かれている(「真田家文書」)。

 昌幸は書状を送る前に国許の状況を知るため、配下の青木半左衛門を上田に遣わし、信之が病気であると知った。書状は信之の病気を見舞うとともに、自身の状況を知らせたものだ。以下、概要に触れておこう。

 昌幸は書状のなかで変わりないので心配しないようにと言いつつも、加齢により気力・体力ともに衰えたと書いている。そして、自身の状況(貧困、病気)を悟って欲しいと述べる。追伸の部分では、田舎のことなので何かと不自由なことを推察して欲しいとし、とにかく大変疲れたと書いている。

 信之に心配を掛けないようにしているが、病気になった昌幸は心身ともにすっかり弱っていたようだ。このとき昌幸は64歳。すっかり高齢となっていた。

 別の年未詳の昌幸の書状(信之宛)には、自身の病気が長引いていること、信之に会いたいと思っているが、それが叶いそうにないことを書き綴っている(「真田家文書」)。もし、病気が治った場合は、信之に会いたいと書いているので、心の底から息子に会いたかった心情がうかがえる。

 もはや「打倒家康」どころか、昌幸は心身ともに衰えていたのである。

■昌幸の最期

 慶長16年(1611)6月4日、昌幸は65歳で真田庵(和歌山県九度山町)で病没した。九度山での幽閉生活は11年にも及んだ。ここまで記したとおり、「打倒家康」を悲願としていたという通説とは大きく異なり、晩年は病と貧困に苦しんでいたのである。

 法名は、龍花院殿一翁殿干雪大居士という。真田庵には宝塔があり、昌幸の墓所とされている。昌幸の火葬後の慶長17年8月、河野清右衛門幸壽が分骨を持ち出し、長谷寺(ちょうこくじ。長野県上田市)に納骨したといわれている(『先公実録』)。そのため、昌幸の墓は長谷寺にもある。

【主要参考文献】

渡邊大門『真田幸村と真田丸 大坂の陣の虚像と実像』(河出ブックス、2015年)

渡邊大門『真田幸村と真田丸の真実 徳川家康が恐れた名将』(光文社新書、2015年)

以上

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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