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徳川家康が恐れおののいた3人の戦国武将とは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:アフロ)

 昨年の大河ドラマ「どうする家康」では、少しばかり臆病な徳川家康の姿が描かれていた。家康には大変恐れていた戦国武将がいたので、そのうち3人を紹介することにしよう。

◎今川義元(1519~1560)

 義元は駿河・遠江を支配する大名で、松平広忠(家康の父)も従っていた。そのような事情から、幼い頃の家康は、今川氏の人質としての生活を余儀なくされた。人質時代の家康は、厳しい生活を強いられたというが、確かな裏付け史料があるわけではない。

 永禄3年(1560)5月の桶狭間の戦いにおいて、家康は義元に従って出陣した。しかし、義元は織田信長の攻撃を受けて討ち死にした。その後、家康は今川氏から離れ、信長に与することになった。義元の死は、家康にとって大きな転機になったのである。

◎織田信長(1534~1582)

 信長は尾張を領する大名で、最初は義元や家康と敵対関係にあった。桶狭間の戦い後、信長は家康と同盟を結んだ。当初、信長と家康の同盟は対等のものだったが、やがて家康は信長の支配下に組み込まれ、各地に転戦することを余儀なくされた。

 ところが、武田信玄は強力な相手で苦戦を強いられ、家康は苦しんだ。天正10年(1582)6月に本能寺の変が勃発し、信長が自害に追い込まれた。その結果、家康は信長の従属下から離れ、次は羽柴(豊臣)秀吉に従うようになったのである。

◎武田信玄(1521~1573)

 信玄は甲斐を領していたが、やがて版図を信濃などに広げ、信長とも敵対していた。元亀3年(1572)12月の三方ヶ原の戦いにおいて、家康は武田軍に打ち負かされ、這う這うの体で逃走した。しかし、翌年に信玄が亡くなったのは幸運だった。

 ここから、信長と家康は劣勢を盛り返した。天正3年(1575)5月の長篠の戦いにおいて、織田・徳川連合軍は武田勝頼(信玄の子)に勝利した。以後も両者は交戦を続け、7年後に信長は武田氏を滅亡に追い込み、家康も胸を撫で下ろしたのである。

◎まとめ

 家康は、義元、信長、信玄を恐れていたが、その死によって道が開けたということになろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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