Yahoo!ニュース

元サッカー日本代表の前園真聖はなぜ韓国で引退? 本人が語った日本との“決定的な違い”とは

金明昱スポーツライター
プロ最後の舞台となった韓国時代について様々な話をしてくれた前園真聖氏(写真:つのだよしお/アフロ)

「 “あれ”がなかったら今の自分はないと思っています」

 サッカー元日本代表の前園真聖氏は当時を振り返り、そう正直に語っていた。“あれ”とは1996年アトランタ五輪で日本がブラジルを1-0で破った「マイアミの奇跡」。前園氏は当時、チームのキャプテンだったこともあり、今もこの話が語られることが多い。

 今年10月29日には49歳。現在は解説やスクール指導などサッカー関係の仕事にとどまらず、テレビなどのメディアにも引っ張りだこで、多忙な毎日を送っている。

 しかし、世間にあまり知られていないのが、ブラジルと韓国でプレーしたこと。特に現役最後の場所が韓国のKリーグだった。2020年12月に放送された旅のトーク番組「アナザースカイⅡ」(日本テレビ系列)では、思い出の地でもある韓国に足を運び「ここでやってて良かった」と振り返っている。

 これまで語られてこなかった海外生活での苦労や様々なエピソードについて聞いた。

「ひしひしと感じた勝負へのこだわり」

――プロサッカー選手としての最後の舞台が韓国だったのは、意外と知らない人が多いと思います。まず安養(アニャン)LGチータース(現・FCソウル)に移籍したきっかけについて教えてください。

 東京ヴェルディを退団してから、オフシーズンに最初は韓国Kリーグの城南一和(ソンナム・イルファ)の練習に参加したんです。僕が行った当時2003年の城南はサッカーを取り巻く環境と規律が厳しくて、「あれ?なんか高校生に戻った?」という印象でした。どうしても当時のJリーグと比較してしまう部分がありましたから。そこでまずは試合をしてテストを受けたんです。その対戦相手が安養でした。試合が終わったあとに「一回、安養の選手として試合に出なさい」と言われてプレーしたら最終的に安養に決まったんです(笑)。ちゃんとテストで評価されて移籍が決まりました。

――安養の環境はどうでしたか?

 ホームタウンがソウルなので、サッカーの環境もJリーグに劣っていなかったですね。2002年日韓W杯ではフランス代表が拠点にしていた場所でしたし、ここならしっかり取り組めると思いました。ただ、ふたを開けてみると、僕のイメージとは違いました。

――それはどういった違いでしょうか?

 これは当時の話として聞いてください。安養はKリーグの中でもサッカーを取り巻く環境では一番と言ってもいいはずです。ただ、根本的なサッカーの在り方や指導方法などが、極端に言えば上意下達で、例えば年上の言うことは絶対。選手が監督に対して意見をしているのは、見たことがありませんでした。それは安養のあとに移籍した仁川ユナイテッドでもそうです。もちろん今は外国人監督などが入ってきて、変わってきていると思うのですが、韓国のサッカー文化に色濃く残っている部分ではないかと感じました。

――それが韓国サッカーの強さや逆に成長の妨げになっているなど、何か思うことはありましたか?

 オリンピックとか代表で日韓戦をしたときは、そういう所での強さをひしひしと感じていた部分はありました。「絶対に負けられない」という勝負へのこだわりを普段から植え付けていた部分があったと思うんです。実際、「これが韓国の強さなんだ」と思っていましたから。

「朝からパンとか食べていたら試合で勝てない」

――ほかに決定的な違いや何か驚いたことはありましたか?

 朝からパンとか食べていたら試合で勝てないって、本気で言われていました。僕は日本人だし、アジア人なので韓国の文化にも馴染めます。でも、同僚のブラジル人選手にも同じ食事をするように言っていたのには驚きましたね。例えば、試合前にホテルに入ると、朝から辛いチゲや肉料理をたくさん食べるんです。キムチも朝、昼、晩と食べます。これは笑い話ですが、ブラジルの選手は涙目で食べていましたよ(笑)。でも、それもチームの規律ですから、これまで韓国でプレーした日本の選手はすごく分かると思います。

――前園さんは韓国での食事は辛かったですか?

 毎日はさすがに堪えましたよ(笑)。だからパンとか食べたくなるんです。でも周囲からは「それを食べないとお前は試合に出られないし、パワーも出ない、それに勝てないぞ」って、冗談ではなくて、本気で言っているんです。韓国にはそうした根拠ない自信みたいなものが根底にある気がしています。俺たちはこれを食べているからパワーが出るし、走れるし、勝てるんだと、信じているように感じていました。

――実際にそれを聞いて、どう思いましたか?

 僕はそうだなとは思いませんでしたよ(笑)。ただ、そうした「信じているもの」がある国は強くなるんじゃないかなと思ったりもしました。逆に日本で「納豆3食たべているから勝つんだ!」なんて言いませんし、日本にはそういうのはないなと勉強になりましたよ。五輪代表の時に、韓国の選手たちと同じホテルになったのですが、彼らは大きなつぼにキムチを入れたものをレストランとかに持ってきて食べていましたから。

1996年アトランタ五輪の日本代表では主将としてチームを引っ張った
1996年アトランタ五輪の日本代表では主将としてチームを引っ張った写真:築田純/アフロスポーツ

「韓国行きに批判的な声は僕の耳に聞こえてこなかった」

――当時、日本から韓国に行く選手は珍しかったですし、海外クラブに行くにはいわゆる“都落ち”と見られる部分もあったと思います。実際に周囲からはどんな声がありましたか?

 それが僕の耳にはそうした声は聞こえてこなかったんですよ。というのも、今みたいにSNSもなかったですし、韓国に行く時も話題になる前にすぐに行ったので、そういう評価は気にしてなかったです。でも実際には代表にもなって、欧州を諦めて韓国に行っちゃうんだと、思われていたかもしれませんが、そういう声が僕には届いてこなかったです。

――政治の世界では日韓関係のこじれなどもあって、「日本から来る選手」として韓国でどう迎え入れられるか、気にはならなかったですか?

 僕のことを知ってくれている選手がすごく多くて、同じ五輪世代の選手もいて、とても溶け込みやすかった。日本人だからとか、厳しい目なんてなくて、迎え入れてくれました。試合でもパフォーマンスが良くなくても、ブーイングもそこまでなかったですし、サポーターも応援してくれる人が多かったです。

――韓国は球際やフィジカル、メンタル面の強さが特徴とよく言われますが、サッカーのレベルはどうでしたか?

 球際、運動量、フィジカル的な部分については、かなり強調していましたね。そこは技術や戦術的な事よりも、かなり重視していたと思います。プレーの技術的なミスを改善するよりもその後、どれだけ動いて走っているのかにフォーカスしていましたから。それが韓国サッカーの長い歴史の中で培われていたものだと思いますし、日本を苦しめてきた部分でもあると思います。

「韓国でやってて良かった」と思えた理由

――そういう中で韓国がプロキャリア最後の舞台となりました。当時31歳でまだやれたのもあったと思うのですが、なぜ引退を決断したのでしょうか?

 韓国では2シーズンプレーしましたが、韓国のレベルが高いとか低いとかではなく、そこで結果を残すという覚悟を決めてやっていたからです。安養でも仁川でもシーズンを通したらそんなに試合も出ていないし、結果を残せなかった。そうなったとき、年齢も考えて自分のプレーが通用したか、通用してないか、結果も残していなければ自分のプレーもなかなかできなかった。ここで結果が出なかったら次はどうなるのかなという危機感もありましたから。仁川との契約が終わってセルビア1部クラブの練習に参加したのですが、契約に至らず2005年に引退を決めました。実力と結果がすべての世界ですから。

――2020年に放送された旅トーク番組「アナザースカイⅡ」で韓国を訪れて、「ここでやってて良かった」と振り返っています。そう思えた理由は何かあったのでしょうか?

 当時はまだ現役を続けたかったですし、悔しい気持ちがありましたから。悔しい思いもして、うまくいかない不安もあり、最終的にはその先のチームが決まらず引退しました。日本代表も韓国には昔から苦しめられている存在で、勝てない時もあって、それは僕の中でずっと頭の中にあったんです。彼らにはどんな強さがあるのか、30歳を過ぎたときにそれを感じられたのは、自分の人生にとっては大きかった。引退してそう思うことが増えたから、「ここでやってて良かった」と。それこそ、海外で初めてプレーしたブラジルはたった3カ月しかいませんでしたが、そこでもいろんな経験ができました。

日本の前に立ちはだかった韓国の強さを知っていたからこそ、気になる国でもあったという
日本の前に立ちはだかった韓国の強さを知っていたからこそ、気になる国でもあったという写真:アフロ

「韓国を選ぶのはいい事」

――前園さんはJリーグでのプレーのあと欧州移籍は叶わず、1998年に3カ月だけでしたがブラジルの名門サントス、ゴイアスでプレーしました。短い期間ですが、感じたこともたくさんあると思います。

 ブラジルはもうご存知の通り、国とか町がサッカーのことを常に考えていて、根付いていました。サッカーがない日でもサッカーの話をしていたり、そのチームのユニフォームを着ている人が街中にたくさんいますからね。サントスとゴイアスで学んだのは、戦術的なことよりも、一つのプレーの質へのこだわりがすごく大きかったこと。ブラジルは“自由にさせる”なんてイメージありますけれど、小さなことは気にしないってだけで、例えば一つのトラップ、パスのタイミングなど細かいプレーについてこだわる。そういうお国柄というか、“こだわり”って大事な部分でもあると思いましたよ。

――現在はKリーグには、今季リーグ優勝した蔚山現代の天野純、水原三星には齋藤学など実力者が多くプレーするようになったのですが、Jリーグの選手たちにとってKリーグは選択肢としてはありですか?

 海外の選択肢として、韓国を選ぶのはいい事だと思います。最近のKリーグ情報はSNSで入ってくるので、天野選手のプレーやゴールシーンも見ましたが、今、僕が行ったらやりやすかったんだろうなって勝手ながらに思います(笑)。天野選手はフィジカルが強いタイプではなく、テクニカルな選手なので、“違い”のある選手が必要とされているサッカーになってきたと感じますね。今の韓国も昔と違って、テクニカルな選手はたくさん出てきていると思いますよ。

「マイアミの奇跡」がなかったら、今の自分はない

――前園さんと言えば1996年のアトランタ五輪でブラジルを破った時のキャプテンとして有名ですが、自身のキャリアにとって大きな割合を占めているのでしょうか?

 僕はワールドカップに一度も出れてないので、自分の実績の中で今もやっぱりいろんなとこで紹介されるのはアトランタ五輪の事です。当時、ブラジルに勝った時のキャプテンだったと紹介されますし、それが自分のプロフィールなのは間違いない。ただ、それがすごく自分の中では嫌だった時期もありました。アトランタ五輪が1996年で、引退したのが2005年ですから、そう考えるとそこで自分の実績は止まってるんだと、消化しきれない部分もありました。

――今はもう嫌ではなくなったと?

 アトランタ五輪の「マイアミの奇跡」がなかったら、今の自分はないなと思います。あれがあったから、現役を退いてもお仕事をいただいていますし、普通の選手で終わっていたと思います。もちろん、僕以上の結果を出した選手もたくさんいますし、そう考えた時にやっぱり自分にとっては大きかったです。

――最後に。現在はサッカー解説、バラエティー、サッカースクールなど、様々な活動をされていますが、将来的には現場でコーチや指導者という選択肢も考えていますか?

 今は監督をやりたいとか、現場へ戻りたいというのはありません。今の立ち位置としては、やっぱりサッカーに携わることプラス、それ以外のものもやっていきたい。ただ、サッカー以外のものをやっても元サッカー選手の肩書きはずっとついてくるので、“自分の立場”でサッカーを広めていくっていうことが今の役割だと思います。

■前園真聖(まえぞの・まさきよ)

1973年10月29日生まれ、鹿児島県出身。92年に鹿児島実業高校からJリーグ・横浜フリューゲルスに入団。94年にはアトランタ五輪を目指すU-21日本代表とA代表にも選出。96年アトランタ五輪ではブラジルを破る「マイアミの奇跡」を演じ、広く注目される。その後、ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ1969)からブラジルのサントスFCとゴイアスECでプレー。その後、湘南ベルマーレ、東京ヴェルディと渡り、韓国Kリーグの安養LGチータース(現・FCソウル)と仁川ユナイテッドでプレー。2005年5月19日に引退。現在はサッカー解説者やメディア出演、ZONOサッカースクールなど多忙な日々を送っている。

スポーツライター

1977年7月27日生。大阪府出身の在日コリアン3世。朝鮮新報記者時代に社会、スポーツ、平壌での取材など幅広い分野で執筆。その後、編プロなどを経てフリーに。サッカー北朝鮮代表が2010年南アフリカW杯出場を決めたあと、代表チームと関係者を日本のメディアとして初めて平壌で取材することに成功し『Number』に寄稿。11年からは女子プロゴルフトーナメントの取材も開始し、日韓の女子プロと親交を深める。現在はJリーグ、ACL、代表戦と女子ゴルフを中心に週刊誌、専門誌、スポーツ専門サイトなど多媒体に執筆中。

金明昱の最近の記事