韓国手話通訳士の外国人初の合格者は日本人!?手話アーティスト“さおり”って誰?韓国サッカー番組で人気
韓国のK-POP人気は世界的なものとなり、それに憧れを抱き、プロデビューを夢見る多くの日本の若者たちが海を渡っている。成功をつかむのはほんの一握りだが、“K-POPアイドル”とは一線を画す幅広い分野で、人気急上昇中の日本人タレントがいる。名前は「さおり(本名:藤本紗織)」。
2018年平昌冬季オリンピック大会及冬季パラリンピック大会で広報大使の日本代表を務めたのを機に韓国で活動を開始し、SBSの超人気サッカーバラエティ番組「ゴールを狙う彼女たち(シューティングスターズ)」で多くの韓国人がその名を知ることになった。
だが、本業の肩書きは“手話アーティスト”だ。“日本人”が韓国語をマスターし、韓国語の手話を駆使して活動の幅を広げるには、相当な努力と覚悟が必要だったはず。彼女は一体、何者なのか? そもそもなぜ韓国で仕事を始めたのか、その手段がなぜ手話だったのか、韓国で成功するための秘訣や近年のK-POPブームをどのように感じているのかなどについて聞いた。
平昌五輪の広報大使を機に韓国でタレント活動開始
――韓国では主にどのような活動をされていますか?
日本でいう“タレント”として活動しています。放送活動をしていますが、メインの肩書きは、私のアイデンティティーでもある“手話アーティスト”です。これは韓国語の手話を使ったパフォーマンスなのですが、歌をそのまま手話で伝えるのではなく、それを振り付けにして伝えます。体を使った全体的なアートとして見せる創作と考えてもらうと分かりやすいでしょうか。ほかには、外国人の立場から韓国や日本の文化を世界に発信できる立ち位置なので、広報大使の活動もたくさんしています。民間の文化外交官のようなイメージです。少し硬く聞こえるかもしれませんが、韓国の文化を日本人である私が発信することに説得力が増すので、自分にしかできないすごく意味のある活動だと思っています。
――韓国で仕事をするようになったきっかけは何でしょうか?
所属しているマネジメントが、韓国の文化を自国や全世界に発信することをコンセプトにしていて、実際に40カ国ほどの外国人が所属しているのですが、ちょうど2018年平昌冬季五輪で私が日本代表の広報大使を務める機会をいただいたんです。これを機に韓国でのタレント活動を本格的に始めることになりました。
――平昌五輪で広報大使をされたのですね。
現場で試合を見て選手にインタビューをしたり、日本の金メダリストにも会って話をしたり、パラリンピックでは聖火ランナーも務めました。ちょうど香取慎吾さんヤチャン・グンソクさんもとも現場でお会いして話をした思い出があります。
――そもそも日本ではどんなお仕事をされていたのですか?
普通に会社に勤める一般人でしたよ(笑)。大学は文学部日本文学科で、第二言語で韓国語を選択し、学び始めました。卒業したらエンタメ分野で働きたいという思いもあり、新卒でJYPエンターテインメントの日本支社に就職しました。
――学生時代から韓国に興味があった?
小学生のころからエンタメ業界で活動したいという気持ちがありました。ただ、両親は学業に専念しないさいと芸能活動に反対でした。高校生の時、海外研修で初めて韓国に行った際に、東方神起などがものすごい人気で、その時にK-POPに初めて触れました。ダンスや歌のレベルの高さにびっくりして、いずれは韓国アーティストと仕事をしたいと思い、韓国語を猛勉強したんです。大学3年時にはソウル大の語学堂に半年間、留学して、4年時は韓国のマネジメント会社に1年間、インターンで入って色々なことを学びました。
――日本で会社勤めは長くされたのでしょうか?
JYPエンターテインメントでは3年間働いて辞めたのですが、そこでできた人脈や経験もあったので、日本にいる私のもとに仕事のお手伝いの連絡が来るようになったんです。俳優やアーティストさんは日本に会社がないので、頼みごとが来ればすべて手伝っていました(笑)。その過程で通訳もするけれど、MCもしてみたいとか、様々なことを経験したいという気持ちになり、昔、抱いていた夢を韓国で挑戦して、叶えてみたいと思うようになったんです。そこから今のマネジメント会社の社長と出会い、18年の平昌五輪の広報大使の仕事から、今に至るというわけです。当時の年齢が29歳だったのですが、このチャンスを逃したら新たな仕事はできないと思い、両親を説得したのですが、大反対でしたね(笑)。
――両親は海外での活動にかなり心配だったのでしょう。
韓国で何かをまた1から新しく始めるのはすごく難しいし、保証もないわけですから。何もあてもなく、まったく初めての分野での挑戦に心配はあったと思います。ただ、JYPエンターテインメントで仕事をしていたときも、同い年のアーティストも多くて、舞台に立って感動を与える姿を見て、自分も何か影響力や感動を与えられる人になりたいという思いが強かったです。
「毎日、朝から夜まで手話教育院で勉強」
――韓国語での手話に携わるようになったきっかけは?
私が所属する会社に韓国の音楽を外国人が、楽器や音楽でリメイクする“ハングルチーム”があるんです。その公演を見ていたのですが、私もその活動をしたかったけれど、歌や楽器ができるわけでもない。それで韓国で手話を見たときに、ハッと思ったんです。音楽を手話でできれば私もここに入れると。そこから勉強を始めました。
――韓国語を話せるとはいえ、手話を習得するのはかなり難しかったのでは?
手話は国ごとに異なるのですが、当初はその認識もありませんでした。でも韓国語を学んだからこそできる韓国手話の勉強を絶対に頑張りたいと思いました。毎日、3年間は猛勉強しました。日本人の私が手話を通してメッセージを送れば、特別な影響を与えることができると信じていました。
――実際に手話はどれくらい勉強したのでしょうか?
当時は芸能活動を始めたとはいえ、新人で無名でしたし、まずは練習生の気持ちで1から頑張ろうと決心しました。平日は毎日、朝から夜までソウルの手話教育院で授業を受けていました。その中でレポーターのレギュラー番組出演も決まったりで両立しながらも、とにかく手話の勉強に必死でしたね。
――韓国の国家資格「手話通訳資格試験」で外国人として初めて筆記試験に合格したそうですね。資格取得を目指した理由は?
“手話アーティスト”としての活動もできたのですが、母国語を音楽で表現していると、ろう者の方からは「何を言っているのかわからない」などの反発の声もあったんです。それに備えるために、自分の手話の力を証明するには資格を取得しかないなと思ったんです。
――合格率は3%という狭き門と聞きました。
試験問題も障がい者福祉、聴覚障がい者に関する知識、手話通訳のあり方、そして国語。心理学や耳の構造やデシベル計算などすごく専門的な知識が求められます。しかも外国人用のテストはなく、すべて韓国語で書かれているので、ハングルの能力の高さも求められる。もちろん外国人がこの試験を受けるのは私が初めてでした。試験が近づいてくると朝4時に起きてスタディールームに行って、夜の10時まで毎日勉強していました。勉強は1日で13時間くらいやってました(笑)。筆記は2年目の2回目で受かりましたが、韓国に行ってがんばっている姿を見せたかったので両親がすごく喜んでくれたのは嬉しかったですね。
手話の勉強ばかりの毎日が辛く大号泣したことも
――勉強ばかりの時期、途中で投げ出したいと思わなかったですか?
もちろんありました。「私は通訳者になりたくて韓国に来たわけじゃない。私はテレビで活動したい」って事務所の社長の前で大号泣しました。でもここでがんばれば、私の今後の姿が見えるから、辛抱してがんばろうと支えてくれました。それでちょうど試験が終わった時にSBSのサッカーバラエティ番組「シューティングスター」のオーディションのオファーが来て、タイミングよく出演も決まったところでした。
――投げ出したくても耐えられたのは、韓国で成功したいという気持ちが強かったから?
その気持ちが一番強かったですね。年齢も若くないし、新しい第2人生のスタートいう重圧と早く結果を出さなきゃいけないっていう焦りもありました。YouTubeなどのSNSをやっていればよかったのですが、それもない。フォロワーも認知度もあるわけでもない。インフルエンサー的な活動よりも、メッセージ性のある事をしたいという思いが強かったんです。
――サッカー番組の出演と同時に手話アーティストとしての活動も本格化していったわけですね。
最初は歌詞を手話に変えていただけでしたが、これなら誰でもできるし、私よりも手話がうまい人はたくさんいると思っていました。自分だけできるものがなんだろうと考えた時にYouTubeやインスタグラムなどのSNSにBTSなどの歌を手話でのパフォーマンスをアップしたところ、他国のろう者が見てくれていて、「こんな風に表現できるんだ」、「芸術価値として表現してくれたことが嬉しい」などと反応が良かったんです。価値のある芸術としての表現が嬉しいんだそうです。こうした表現をろう者の方たちと共有することに意味があるんだなと思いました。
新たなパフォーマンスに批判の声もあったが諦めず
――一方で創作や新たなパフォーマンスに対して批判めいた声はなかったですか?
「ネイティブでもないのになんでこんなことをしているのか?」とか、「字幕がないとわけがわからない。通じない」という声もありました。でも、くじけることなく自分たちのやり方を信じて継続していると、ろう者協会から手話イベントに呼んでくれるようになったんです。私なりのパフォーマンスをそのまま受け入れてくれて、今ではがんばってという声もたくさんいただくようになりました。諦めないでよかった!と思った瞬間でした。
――韓国語手話の魅力はなんでしょうか?
ろう者の方とお話ができて、通じ合えることです。一緒に笑ったり、共感しあえたり、そういうことができる瞬間がすごく心地いい。言語ができることでその倍の情報を得られるように、何倍の人とコミュニケーションを取れる。韓国語を勉強していなければ、今の私はいないと考えると本当に苦しくてもやってきてよかったと思います。
――最近の出来事で嬉しかったことはありますか?
今年1月に韓国の法務部長官の表彰を受けたことです。これは法務部ソウル出入国・外国人庁の広報大使を6年務めたことや手話アーティストとしての活動が認められたようで、すごく嬉しかったです。
サッカーバラエティ番組で一気に「さおり」の名が広がる
――話は変わりますが、高視聴率のサッカーバラエティ番組「ゴールを狙う彼女たち(シューティングスターズ)」の出演で、韓国内では「さおり」の名前が広く知れ渡ったと聞いています。
今も「ゴールを狙う彼女たちの“さおり”」と言われることがすごく多くて、番組をきっかけに自分の名前を知ってもらういいきっかけになりました。私のがんばる姿や一生懸命にプレーしている姿を見て、応援してくれる人がたくさんいて、うれしい言葉をもらう機会が増えました。「人生をさおりみたいに一生懸命生きろ」って周りの人たちが言ってくれることがあって、努力していると認めてくれる人たちがいるということも分かりました。
――そもそもサッカーはしたことあったのでしょうか?
最初はサッカーが好きではなくて、興味もなかったんです(笑)。でも、サッカーは言葉が必要ないし、ボール1つを使って体でコミュニケーションが取れますよね。みんなで楽しめて1つになれるというのが、手話アーティストとしてのアイデンティーとも同じだと思ったんです。それで番組出演が決まってからは、ほぼ毎日、個人レッスンを受け、チーム練習などサッカーの練習をしました。試合が近づくとやっぱり勝ちたいから朝練して、昼は走る練習、夜は練習試合もしてました。そうすると1日に6時間くらい運動していますね(笑)。
――今年はリーグ優勝してMVPも取られたそうですが、練習は裏切らないですね。
学生の頃、期末試験になると寝ずに勉強する派だったので、自分がやりたいとか必要性を感じたことに対してはがっつりのめり込む性格です(笑)。だからサッカーをするにしても、努力したことの成果が出ることがすごく大事だと感じています。
日本のK-POPブームをどう受け止めているのか?
――さおりさんは韓国でのタレント活動が軌道に乗ってきているところですが、最近の日本でのK-POPブームをどのように見ていますか?
K-POPもKビューティー(韓国の美容)もリアルタイムで共有できるのがすごくいいなと思うし、うらやましいです。日本の若い子が韓国の文化に自然と接する環境がすごく良くなってると感じますし、韓国で様々な事に挑戦することはすごくいいと思います。K-POPでもどの分野でも自分だけの武器、強みを持つことです。一つずつ小さな目標を持ってチャレンジしてほしい。
――韓国でこれからやりたいことはありますか?
手話アーティストとしてもっとみんなに知ってもらいたいですし、大きな目標はもっと大きな舞台に立つことです。カバー曲しかやっていないので、オリジナルの曲なども出して本格的に活動していきたいです。そのためには手話もしっかり準備して練習もたくさんして、もちろんサッカーの番組や他の番組でも認知度を上げていきたいです。来年9月に日本で手話フェスティバルがあるので、そこで韓国語の手話を使って何かできる機会があればいいなと思っています。
■藤本紗織(ふじもと・さおり)
1989年4月4日生まれ、神奈川県出身。フェリス女学院大学・文学部日本文学科卒業。JYPエンターテインメント日本支社に3年勤務。2018年平昌冬季五輪及び冬季パラリンピックの広報大使日本代表に就任。韓国のマネジメント会社に所属しながらタレント活動を開始。韓国語の手話を習得し、20年に合格率3%の国家試験「韓国手語(手話)通訳士」資格の筆記試験で外国人として初めて合格。現在は“手話アーティスト”として歌や音楽にのせたパフォーマンスで各種舞台、韓国ろうあ協会の各種イベントでの公演、ダンスチームの“アバンギャルド”など出演した「日韓交流おまつりinソウル」でMCを務めるなど幅広く活躍。SBSの人気サッカーバラエティ番組「ゴールを狙う彼女たち(シューティングスターズ)」の活躍で知名度を上げている。