石川ミリオンスターズのエース・安江嘉純投手が男同士の約束を守り、プロ野球への扉を開いた
■石川ミリオンスターズから球団史上最多の3選手が指名される
今年のプロ野球ドラフト会議では支配下選手87人、育成選手28人が指名を受けた。独立リーグ・ルートインBCリーグの石川ミリオンスターズからは球団史上最多の3選手が指名された。
千葉ロッテマリーンズ育成1位・安江嘉純投手、東京ヤクルトスワローズ育成1位・大村孟捕手、オリックス・バファローズ育成4位・坂本一将内野手だ。
ミリオンスターズは昨年もNPBに選手を輩出している。読売ジャイアンツの長谷川潤投手だ。長谷川投手も育成指名ではあったが、開幕直後には支配下登録され1軍での先発も経験。フレッシュオールスターにも出場した。
今年指名を受けた3選手も、長谷川投手に続けとばかりに意気込んでいる。そんな3選手の今の心境を聞いた。
■男と男の約束を守った
まず今回は安江嘉純投手をご紹介しよう。
ドラフト会議で名前が呼ばれたときのことは「言葉では言い表せないです」と振り返った。
「ボク、約束を守りましたよ…」。まず頭に浮かんだのは、小学3年からずっと可愛がってくれた“会長”の顔だった。初めて会ったとき口にした「プロ野球選手になりたい」という夢をずっと覚えていてくれ、応援し続けてくれた人。交わした男同士の約束は「プロ野球選手になる」だった。
その人の名は河村保彦さん。中日ドラゴンズ(1959-1967)、ヤクルトアトムズ(1968-1971)で投手として活躍したのち、野球中継の解説、新聞の評論を務めた。またヤクルトアトムズ、ヤクルトスワローズでピッチングコーチ(1972、1993-1994)として1993年のリーグ優勝、日本一に貢献した。
解説や評論のかたわら、河村さんは名古屋市内でバッティングセンターを経営するとともに小中学生の野球チームの会長も務めていた。小学3年のとき、安江投手は河村さんに出会った。
■嫌でしかたなかった野球が、最も好きなことに大転換
それまで近所の野球チームに3年ほど所属していたが、「そこでは野球が死ぬほど嫌いだったんですよ。毎日『行きたくない、行きたくない』って言って、泣きながらユニフォーム着せられていたんです。親が『野球やれ』って言って」と、いかに苦痛だったかを明かす安江投手。
嫌だった訳はこうだ。「野球やっていたらお兄ちゃんができるじゃないですか。その慕っているお兄ちゃんたちが目の前で(指導者に)叩かれたりするんすよ。それがすごく嫌だったんです。そういうの見て、こんなとこで野球やりたくないなって」。6歳上の姉は中学生で、一緒に遊ぶ機会もあまりない。安江投手にとってチーム内の“お兄ちゃん”は本当の兄弟のように大切な存在だった。だから、そんな光景を見ることは何より辛かった。
そんなとき、父の知人の紹介で河村さんが経営するバッティングセンターへ連れて行かれた。「(バッティングの)チケットくれて、打ったらめちゃくちゃ褒められたんです。初めてじゃないかな、あんなに褒められたのは」。
それが嬉しくて、すぐに河村さんが会長を務める「名古屋平針HBC少年野球クラブ」への体験入部をお願いした。するとそこでの野球が楽しくて、即、入部を決意した。「初練習の前日、楽しみすぎて眠れなかったくらい(笑)。そこからどんどん野球の楽しさにハマっていったかな」。10年以上前のことだが、安江投手の口ぶりから当時の興奮が伝わってくる。
あんなに嫌だった野球が、最も楽しいものに180度変わった。「みんな上手くてレベルも高かった。試合をすれば勝っていましたね」とチーム内で切磋琢磨し、勝つ喜びも味わえた。何より頭ごなしに理不尽に怒る指導者などいないことが幸せだった。
野球が大好きなまま中学時代も河村さんのチームに入り、ドラゴンズのキャンプに連れて行ってもらうなど、河村さんには本当に可愛がってもらった。
高校も河村さんの勧めで中京高校に入学した。愛知学泉大学に進んでからも、グラウンドにちょくちょくやって来ては「どうや?」と声をかけてくれた河村さんだが、実はその頃、河村さんの体は癌に侵され余命3ヶ月と宣告されていたのだった。「そんな素振りはなかったし、まったく気づかなかった」と、安江投手が知ったのは、あとになってからだったという。そして河村さんは安江投手が大学2年のとき、この世を去った。
■自分自身への“猶予”の2年間
その後、大学3年になって「野球に対する気持ちが切れてしまった」という安江投手。「やりたくないってわけじゃないけど、自分で無理だなというのがあって…。辞めたいのとやらなきゃいけないというのが五分五分で、現実から逃げていたっていうのが強かったかも」と振り返る。
そして悶々としたまま4年生になった。秋のリーグ戦が始まったころだ。大学のコーチから、コーチ自身の同級生である福井ミラクルエレファンツの森亮太選手の活躍ぶりを聞かされた。至学館大学出身の森選手とは、これまで同じリーグで何度も対戦してきた。
すると、ふと思った。「森さんが活躍できるんなら、オレもいけんじゃね?」と。
「コーチは何の気なしに言ったんですよ」。奮起させようなどではなく、単なる世間話だったが、期せずしてそれが安江投手の心に火を点けた。自信も取り戻させた。
大学の監督からは常々「河村さんとの約束はどうすんだ」と言われてきた。安江投手が初めて会った河村さんに「プロ野球選手になりたい」と話し、二人の間でプロを目指す約束を交わしたことを、監督は知っていたのだ。
そこで「あと2年、独立でやってダメだったら、誰にも文句言われないだろう」と考え、自身に2年の“猶予”を与える最終決定を下した。
■NPB出身の指導者や先輩と出会えた濃密な2年間で大ブレイク
石川での1年目の持ち場は、おもに中継ぎだった。ブレイクしたのは2年目の今季だ。先発ローテーションの柱として22試合に登板してハーラートップの16勝(1敗)。・941という驚異的な勝率を記録して、前後期ともに地区優勝の大きな原動力になった。奪三振はダントツの131、防御率も1.79でリーグ2位に輝いた。
渡辺正人監督、多田野数人ピッチングコーチともにNPB出身者だ。「出会えたのは、めちゃくちゃデカいと思います。普通の野球経験者じゃないんで。野球の観点が変わりました。これまで十何年やってきた野球人生より、この2年は本当にいい経験ができて密度が濃かった」。NPBでプレーすることを睨んだ“実のある指導”によって、自身が成長できたことを実感している。
渡辺監督も「安定感があり、どこでも(先発、中継ぎ、抑え)起用できるタイプ」、多田野コーチも「どのボールでもストライクが取れる。性格も素直」とそれぞれ安江投手を高く評価している。
またチームには元阪神タイガースの西村憲投手も在籍しており、2年間、苦楽をともにした。「年も近いし、プライベートでも仲良くしてもらってるんで、色々訊く機会も多いし。ボクが訊いたらちゃんと全部答えてくれるんです。経験値が全然違うし、説得力も違う」。様々な相談に乗ってくれる、安江投手にとって最も身近なリスペクトの対象だ。
西村投手は「バランスよく能力がある」と“安江評”を語る。「ポテンシャルが高くてスピードが出る。でも出るからといってバラつかず、コントロールがいい。先発として大崩れせず試合を作ることができる。いや、先発だけじゃなく、リリーフでいってもパッと力が出せる。荒削りというより完成されている」と大絶賛だ。さらに「性格もピッチャー向き。普段はほわんと優しいのに、マウンドに上がると闘志むき出しでいける」そうで、あらゆる面で完成度が高いという。「ボク自身も楽しみ」と“弟分”のNPBでの活躍に期待している。
■もっともっと恩返しを・・・
こうして「プロ野球選手になる」という小学3年のときの“男と男の約束”をまずは果たせた。これまでも節目には河村さんのお墓を訪れ手を合わせてきたが、今回は最も喜んでくれる報告ができた。
「次は『支配下になりました』、その次は『1軍に上がりました』、『勝ちました』って、もっともっといい報告ができるようにしたい」。
実は一連の河村さんの話は初披露だという。「NPBに入ったら話そう」と、これまで心の中に大切に秘めていたそうだ。
今ドラフトで指名され“解禁”としたが、安江投手が活躍すればまた、「河村保彦投手」の名も蘇り、光り輝くだろう。そんな恩返しを心に誓い、安江投手はプロへの扉を開いた。
【安江嘉純(やすえ よしずみ)】千葉ロッテマリーンズ・育成1位
1992年5月26日生/185cm 80kg/右投 右打
愛知県出身/中京高校―愛知学泉大学
185cmの長身から投げ下ろす最速151キロのストレートにスライダー、フォーク、チェンジアップ、カットボールの変化球に、安定したコントロールも備える先発完投型の投手。リリーバーとしての適応力もある。
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