『どうする家康』徳川家臣団の「髭」の謎 髭のあるなしで家康との距離が描き分けられた
徳川家臣団の多くは「畳の上」で死んでいる
大河ドラマ『どうする家康』は終盤である。
家康(松本潤)とともに戦乱の時代を戦ってきた重臣たちがどんどん亡くなっていく。
それも戦場での死ではなく、ほとんど「畳の上で死ぬ」という往生で、これはこれで感心してしまう。
後半になって、いくさで死んだ重鎮は、彦右衛門くらいである。
慶長五年(1600)、関ヶ原の前哨戦である伏見城の戦いで、彦右衛門こと鳥居元忠(音尾琢真)とその妻(古川琴音)は城で討ち死にする。
彼をのぞくと、ほかの重鎮たちは「畳の上」で死んでいる。
本多忠勝(山田裕貴)、榊原康政(杉野遥亮)、酒井忠次(大森南朋)、井伊直政(板垣李光人)の四天王を始めとして、大久保忠世(小手伸也)、服部半蔵(山田孝之)たちもみな、いつのまにか死んでいる。
そして、徳川家康は長生きである。
重臣たちの死が描かれるということは、ボス家康がずっと生きているからである。
あらためて、この人の長命が、徳川時代を作ったのだなと、痛感する。
そして家康は長生きである
家康は、同時代のみんなよりも長生きし、淀君や秀頼よりも長生きし、目につく敵をほぼ滅ぼしてから死んでいる。
あらためて、ちょっと珍しい人生だなとおもう。
元和二年(1616)4月、家康が死んだあとも生き残っていたのは『どうする家康』家臣団で言えば、本多正信(松山ケンイチ)だけである。あとは渡辺守綱(木村昴)も残っているがそんなに重鎮ではない(彼は城持ち大名ではない)。
すでに45話では、家康が相談できる三河以来の家臣は、正信だけになっている。
ちなみに本多忠勝の子・忠朝、榊原康政の子・康勝は、大坂夏の陣に出陣して、家康よりも先に死んでしまう。
城持ち大名になるとヒゲが生える
家康を支えた三河家臣団は、最初のころは若い連中の集まりという雰囲気だった。
三河を平定し、やがて天下を狙うようになって風格が出てくる。
「城持ち大名」となっていったのだ。
そしてヒゲが生えた。
『どうなる家康』の途中から、みんなどんどんヒゲ(髭)が生えていった。
家康のヒゲが生えたのは賤ヶ岳の戦いのあと
徳川家康がヒゲを生やしたのが賤ヶ岳の戦いが終わって、小牧長久手の戦いが始まる前であった。
31話「史上最大の決戦」の途中である。
さすがに主人公なので、あ、家康にヒゲが生えたな、と気づいた。
色男以外は早めに死ぬ者だけがヒゲを生やしていた
第1話から登場して、そのときからヒゲを生やしていたのは三河一の色男と呼ばれていた大久保忠世(小手伸也)である。彼は1話から生やしていて、そのままずっと生やしていた。
あと家臣団のうち1話でヒゲを生やしていたのは鳥居忠吉(イッセー尾形)と、本多忠真(波岡一喜)だった。
でも鳥居忠吉は出てきたときから老人なので、早いうちに隠居、また本多忠真は三方ヶ原の戦いで死んでいる。
色男以外は、早めに死ぬ人物がヒゲを生やしていた。
本多正信と服部半蔵も登場時からヒゲ面であった
3話から登場した本多正信(松山ケンイチ)と服部半蔵(山田孝之)は最初から髭を生やかしていた。この二人は、三河以来の家臣ではあるが、ちょっとクセのある存在であった。
クセがある、というシルシで最初からヒゲを生やしていたようだ。
それ以外の家臣は、みなヒゲがなかった。
こういうメンバーである。
酒井忠次
石川数正
鳥居元忠
平岩親吉
本多忠勝
榊原康政
井伊直政
まだ三河一国をまとめようとしていたころ、彼らはヒゲなしであった。
もちろん徳川家康(松本潤)にもヒゲがない。ちなみに秀吉(ムロツヨシ)もなかった。
まず酒井忠次と石川数正にヒゲが生える
そして家康が高みに上がるにつれ、徐々にヒゲが生えてくる。
最初に生えたのは、酒井忠次(大森南朋)、石川数正(松重豊)であった。
家康より先である。二人同時に生えた。
26話である。
天正十年(1582)、武田勝頼を破ったあと、織田信長を「ぶらり富士遊覧」に招待したときから、酒井と石川にヒゲが生えた。
酒井忠次が56歳、石川数正50歳あたりである(年齢は数え年)。
これぐらいになるとヒゲが生えてくるらしい。
家康と一緒に鳥居忠元と平岩親吉にヒゲが生える
ついで31話、賤ヶ岳の戦いのあと小牧長久手の戦さまでのあいだ、だいたい天正十一年(1583)ころ、徳川家康にひょこっと口髭が生えた。
すると同時に鳥居忠元(音尾琢真)と平岩親吉(ハナコ岡部)にも口髭が生えた。
年齢は(だいたい)鳥居が45、平岩42、家康41である。
40歳を超えると、ヒゲを生やしたほうがいい、ということのようだ。
それに遅れて平八郎忠勝と小平太康政
そして36話になって、本多忠勝(山田裕貴)と榊原康政(杉野遥亮)にヒゲが生える。
天正十六年(1588)ころだ。
本多と榊原ともに41。二人は同い年である。
勇猛果敢で名を馳せた本多忠勝が、この年までヒゲを生やしてなかったのが意外である。
だから他の家臣のように口髭だけではなく、口周りにしっかり生やかしていて、そのへんは本多忠勝らしい。
最後は最若年の井伊直政
最後は井伊直政(板垣李光人)、最若年の重臣である。
直政は38話、文禄四年(1595)になってヒゲが生えた。
ピンと跳ねた口髭で、ちょっとおかしみもあるが、美貌の武将によく似合う。
直政は家康よりも18歳も下で、若い。
ヒゲを生やしたのも35歳のときと、他の人より少し若い。
ただ、彼は関ヶ原の少しあとに42歳で死んでしまうので、このへんで生やかしてくれないとそのままヒゲなし直政のままで終わってしまうので、二度目の唐入りの少し前あたり、文禄年間に生えた。
それ相応の年齢になってヒゲを生やす
『どうする家康』では、三河家臣団は、それ相応の地位や年齢になったらヒゲを生やしだしていた。
世の男性は、べつだん年をとったからヒゲを生やすわけではない。若いうちから生やしている人も多い。
でもたぶん「観念としてのヒゲ」は貫禄のある男性のもの、というイメージが強いのだろう。そのイメージの具現化として、ヒゲが年齢順にひょこひょこ、生えてきたのだろう。
なんか、おもしろい。
最初から生えていた怪しい人たち
最初から生えていたのは、もう一度言うと、大久保忠世(小手伸也)、鳥居忠吉(イッセー尾形)、本多忠真(波岡一喜)、本多正信(松山ケンイチ)、服部半蔵(山田孝之)である。
大久保忠世はたぶん色男だから。
鳥居忠吉と本多忠真は早めに死ぬから。
本多正信と服部半蔵はいつも家康の側にいるわけではないから(本多正信はいちど家康を裏切って追放されている)。
家臣団の色分けサインだったのだろう。
最初からヒゲのあった人たちは(大久保忠世をのぞいて)要注意人物、ということだったのではないか。
残りの家臣たちは、ずっと家康と一緒にいて、家康とともに育っていった、その象徴としてヒゲがあったのだとおもう。
家康一人では何もできなかったという内容を一年かけて描いたドラマでもあった。
創業の功臣たちがほぼいなくなって、いよいよ年末だなあというおもいがつのってくるばかりだ。
(本記事は、堀井憲一郎自身の「週刊現代」連載記事「夜通しテレビを見続けて」第1回の記事をもとに新たに書き加えて書き下ろしたものです)