映画『碁盤斬り』が切り捨ててしまったもの 世界を壊す小泉今日子の貫禄
『碁盤斬り』はタイトルがネタ割れ
草彅剛主演の映画が『碁盤斬り』というタイトルを見たときに反射的におもったのは、それだとネタバレになっちゃうじゃん、であった。
碁盤割りと聞けば落語好きなら「柳田格之進」という落語をおもいうかべる。
実際にこの落語をもとに映画『碁盤斬り』は作られている。
でもまあ、あまり気にするほどのことでもないのだろう。
柳田格之進が映画のタイトルでは地味すぎる。
あまり寄席で聞かない
落語の「柳田格之進」は印象深い話である。
私が初めて聞いたのは古今亭志ん朝のCD(落語名人会/ソニー)であった。
その後は何度かライブで聞いたが、そんなに数が多くない。
独演会で演じる落語家はいるが、あまり寄席では聞かない。
ここ20年くらいで私が「柳田格之進」を聞いた回数は22回、演者は10人かぎりである。
あまり多くない。(寄席の定席で聞いたのはさん喬と先代志ん五の2回ぎり)
較べてみると、同じような武士ネタである「井戸の茶碗」は聞いた回数が89回で演者は53人、かなり違う。
人気の人情噺だと「芝浜」は87回で演者は37人、「紺屋高尾(幾代餅をふくむ)」が84回・演者39人である。
これらに較べると、とても少ない。
「柳田格之進」は現代人にはあまり納得できない噺なのだ。
儲からない落語
柳田格之進が「大事にしているもの」が理解しにくいからだろう。
彼が大事にしているのは「武士としての矜持(尊厳)」である。
さらに落語では彼の寛大な心(人を許す心)もテーマにしている。
そして大事にしていないのは、娘、である。
映画では清原果耶がやっていた娘。
盗んだ嫌疑を掛けられた金を返すため、柳田は娘を売る。娘が自分から申し出たことではあるが、娘が娼婦になるのを認める。自分の意気地を守るため、娘を吉原へ売る。
これが、ちょっとついていけない。
落語を聞きおわって、いいはなしが聞けたな、とはおもえない。
客が喜ばない。
いわゆる「儲からない噺」なのだ。
だから演じる人が少ない。
落語「柳田格之進」の内容
以下に落語の内容を、敢えて改行せずに一固まりにして書いておく。
ネタバレを避けたい人のためである。徳川時代の昔ばなしのネタバレというのはほぼ無意味だとおもうが、でもまあ念のため。
江州の浪人・柳田格之進は、いわれなき嫌疑を受ける。大店商家の主人とお店の奥で碁を打っていたが、そのとき店で五十両がなくなり、それを柳田が持ち帰ったのではないかと疑われる。もちろん濡れ衣である。でもお店の番頭が問い詰めると、では金は用意しようと柳田は返答する。清貧のなかで暮らす実直そのものの柳田には五十両の金を工面する才覚はない。ひそかに腹を切ろうとするところ、娘が察して、私を吉原とやらにお売りください、その金でお返しください、のちに必ず五十両が出て来ますので、そのおりは、番頭と主人の首を切り、ご無念をお晴らしください、と申し出る。これを柳田は受ける。娘は吉原に売られその金を番頭に渡して、柳田は消える。その年の暮れ、大掃除の最中に紛失した五十両が出てきて、柳田は無実だったとわかる。柳田と偶然道で行き違った番頭は非礼を詫びる。主人と番頭二人の首を落とさねば娘の無念が晴らせないと柳田に言われ、二人は覚悟を決めて店の座敷で待つ。柳田が一閃振り下ろした刀は、首を落とさず、碁盤を真っ二つに割った。やがて娘はこの番頭と一緒になり睦まじく暮らした。
書いていて、あらためて、なんだこれはとおもう。
古い落語には、こういうわかりにくいものが残っている。
立川談志は演じなかった
立川談志は「柳田格之進」を演じなかった。
やりたくない、と高座で語っていたのを私は聞いた憶えがある。
談志は「やだよ、あれ」というふうに話していた。談志はそういう人であった。この落語を、やだよ、という気持ちはよくわかる。
談志のライバルとして並び称された志ん朝は演じていた。
彼の兄の十代金原亭馬生や、父の古今亭志ん生も演じていた。
古今亭一門は演じている。
ちなみに談志の高弟である立川志の輔はよく演じている。
映画が変えてしまったこと
映画『碁盤斬り』では、娘の身売りの部分が変えられていた。
その変え方がうまい。
そこの部分は落語「文七元結」に差し替えられたのだ。
ある意味、落語「柳田格之進」は切り捨てられ、現代受けする人情噺へと変えられていた。
それはそれでなかなか見事な構成だな、と映画を見ていて感心していた。
娘は吉原に売られるが、すぐには見世に出されない。内働きにされる。
それは娘の父が、ここの女将と顔なじみであったからだ。
「五十両は年の内に返してくれればいい、それならば娘の身はそっくりそのままお返しする、でも大晦日を一日でも過ぎれば、私も鬼になるよ、この子を見世に出す」と決意の顔で女将は言い渡すのであった。
小泉今日子の女将の迫力
これは落語「文七元結」の展開である。
映画『碁盤斬り』はここを取り入れていた。
映画では吉原の見世は「半蔵松葉」、文七元結では「佐野槌」と違っているが、でも内容は同じである。
映画で迫力ある女将を演じていたのが小泉今日子であった。
「大晦日を一日でも過ぎれば、私も鬼になるよ」というセリフを言って聞かせるのには貫禄がいる。
小泉今日子がその役に合って十分、圧倒する威信を見せた。
この小泉今日子のセリフを聞くだけで映画を見る価値があるだろう。
これはある意味、小泉今日子の映画だなあ、とおもって私は見ていた。
古い「柳田格之進」を切り捨て、それを現代につなげたのは、小泉今日子の迫力ある啖呵であった。
彼女の貫禄が世界を変えた。壊したとさえいえる。
あらためて、草彅くんが柳田格之進、キョンキョンが佐野槌の女将をやるような年齢になっているのか、と感慨深くなる。
聞きやすく変えたところで落語は馴染まない
落語「柳田格之進」は父のために娘が吉原に身を沈めるのだが、いまは、そこをスルーする演出もある。刀を売って五十両を作る、というのを聞いたことはある。
ただ、落語の面倒なところは(落語聞きの面倒なところと言ってもいいのだが)、もともと構成がよくないなとおもっていても、それが変えられると落ち着かなくなる。つまり、なんか納得いかない。やっぱ、もとのほうがいいかな、と考えたりする。
頭で聞かずに身体で聞いてるからだろう。
なかなか面倒だ。
この落語の魅力は、柳田格之進の風格にある。
そこが聞きたいところだ。そこを変えるとおそらく、落語の雰囲気が全部ちがってしまう。
落語の哀しい噺は哀しいままで受け入れるしか、しかたがない、ということなのだろう。
『碁盤斬り』の落語要素
映画には、いろいろ別の落語要素も入れられていた。
それが楽しかった。
萬屋源兵衛(國村隼)が出てきてすぐ、お店の者につぎつぎと小言を言ってまわっているのは、あれは小言幸兵衛ではなく、おそらく「百年目」の冒頭シーンだとおもうのだが、まあ、どうでもいいところだ。
大きいのは仇討である。(仇討と書いてどうかアダウチと読んで欲しい。「仇討ち」と書いてある日本語は私には間違いにしか見えない)
この映画は仇討が入ることによって、もとの落語世界を越えて、とてもスリリングな作品になっていた。
ただこの仇討の因縁は落語「宿屋の仇討」や「高田馬場」などに話される仇討話と同じで、そこが妙におもしろい。落語の中の因縁はすべて作り話、ないしは作り話に近い噂話でしかないのだ。
映画の見どころ
でも、この映画ではリアルに出てきた。
「懸想(けそう)をして」という言葉は落語のニセ仇討でしか聞いたことがなく、そして映画では柴田兵庫(斎藤工)が使っていた。
こいつなのか、とおもって妙に嬉しかった。
「懸想する兵庫・斎藤工」と、「啖呵を見事に切る女将・小泉今日子」が見られるのが楽しいところであった。
素敵な映画だとおもう。