樋口尚文の千夜千本 第152夜「僕たちの嘘と真実 DOCUMENTARY of 欅坂46」
欅坂にまるで「不協和音」を感じ取れないその理由
少女には異議申し立てをしてほしい。それは少女に表現としての異議申し立てが似合うからだ。オジサンはもとより、男子でもだめなんだ。なぜかといえばオジサンであれ若い男子であれ、男は生来にして狭隘な意味での「乙女」であって、年季を積もうが若かろうがとかく見え方や理屈を考えながら動く。そこへ行くと、正しい少女は「僕」の思いきりと胆力に生きていて、その行動の動機に体面や理屈は要らない。少女もしくは少女のこころを持った女子の行動基準は、好きか嫌いか、快か不快かであって、理由付けはスキップして直観で動く。見るまえに跳べる種族だ。ところが今も根強き古臭い男権社会は、こんな直截な本音で主張する女子たちが怖いのだ。国際社会が呆れまくった香港国家安全保護法で、23歳の周庭がものものしくしょっぴかれて行く映像を見ていると、逆にあの巨大な国家がいかにこの不機嫌な一少女を畏怖しているのかが窺えて驚きだった。
そう言えば、アイドルから母になってもプロテストのまなざしが健在な前田敦子という逸材に自分の映画のヒロインをお願いして、その直観的な突破力に打たれた。あゝ、これだこれだと感電した。そして前田を筆頭に多彩な個性を輩出し続けるAKB48、あるいは乃木坂46といったユニットの潜勢力には恐れ入るばかりだったが、これが欅坂46となると今度はあまりの異質さに釘付けになった。「ああまさか自由はいけないことか…‥」。まさにくだんの周庭が逮捕拘束中に欅坂46の「不協和音」を思い出しながら自らを奮い立たせていたと語っていたが、これはもう少女に与えられた無条件の、そして無媒介的なプロテストの才能をぞんぶんに見せてみよ、と集められた集団ではないか。なぜこんなアイドルユニットが成立しているのか、ちょっと謎なくらいだったのだが、このたび高橋栄樹監督が仕上げた欅坂46初のドキュメント映画を観て、そのさまざまなハテナがいくらか氷解した気がした。
こんなにコンセプチュアルなユニットの表現は、もちろん発案者である秋元康や周辺のスタッフといったオトナたちがたくらまなければ実現しないことではあるものの、とはいえ実際に欅坂46を見ていると総員の表現の尖鋭さ、振り切れかたがみごと過ぎて、そこが不思議であった。こういう表現のアーティスト性は、たとえば大所帯の映画づくりなどでは監督という「個」にスタッフ、キャストの力が収斂されていかないと生まれ得ず、何とはなしの共同作業では到達できない。ましてこんな性格も感性もふぞろいな大人数の少女から成るユニットが、無私に壮絶にコンセプトに殉ずるさまは、ちょっとオトナの訓示的発声だけではたどりつけない気がしたのだ。実際今回の映画にあっても秋元康が自らメンバーに「アイドルの定型を意識したりせずに、みんな思い思いに常識を打ち破ってほしい」と思いきったハッパをかけるシーンも映像として確認できるのだが、欅坂自体にそういうかけ声だけではすまない強烈な「個」へ集約されるベクトルがある気がした。
この137分にも及ぶドキュメント映画を観て、それがひとえにセンターの平手友梨奈の牽引力の賜物だということがよくわかった。そんなことはへいぜいのライブを見ていれば自明ではないかと言われるかもしれないが、しかしそれがここまでのものだというのは本当に驚きだった。高橋栄樹監督は、周囲のメンバーへの静かで真摯なインタビューによってその秘められし実態を浮き彫りにしてゆく。みんな口々に平手の資質は自分たちの想像のはるか先を行っていると崇拝に近い賞賛を捧げるのだが、「私たちは仮に平手のバックダンサーであってもいいと思う」という趣旨の発言が出たのには瞠目させられた(しかも決して気後れでも遠慮でもなく、誠実に考え抜かれた言葉として!)。
これははしなくも平手との向き合いを超えて、欅坂というコンセプトを受けて立とうという覚悟を表す言葉だろう。普通の感覚で言えばアイドルは何をもさしおいてエゴが先立つ。なぜならたいていのファンは、作品というよりもそのアイドル本人のイメージに耽溺しているからだ。しかし、平手友梨奈は徹底した作品志向であって、俯き髪をふり乱して、PVではないライブでは顔さえ見えないことがよくある。そんな平手がコンダクターみたいな位置にいるから、メンバー全員がエゴに走らず作品に埋没することになり、楽曲の歌唱中に誰が誰やらわからないまま終わることなど普通である。
もちろんインタビューに答える大勢のメンバーのなかには、明快に言葉にすることはないが、平手が欠けるとみんな意気消沈して生気を失ってしまう状況に疑問を感じている女子もいる(それは普通のライバル心や、または自分たちの不甲斐なさ、悔しさを映したごく自然な反応である)。だがしかし、平手が体調から出演をとりやめたり、作品に対する考え方の相違から出演を辞退したりした時のメンバーの戦意喪失ぶりをカメラは率直に粉飾なしにとらえていて、やはりこの構造を変えることは容易ではないように見える。そしてまた、一方で描かれる平手自身の姿と言えば、ひとりみんなから距離を置いて役割に没入したり、苛酷なパフォーマンスの後にとどまらず常に心身をぎりぎり追い詰めてスタッフに抱えられて移動していたり、誰もまねできないシャーマン的な孤高さに生きている。
こうして欅坂46は個々のメンバーのエゴは排除し、平手という強烈な「個」を映した集団として稀代の「作家的」アイドルユニットの高みに登り詰めるわけだが、平手という存在を失った後は自ずからその独特さも維持が難しくなった。それを実感するや、5年間の活動に終止符を打って欅坂46の看板をおろすという決断に至るわけだが、その潔さもまたこのユニットならではのことだろう。このドキュメント映画は、単なるファンサービスのバックステージ物ではなく、何から何まで画期的な欅坂46という集団の魅力の本質、可能性と限界にまで踏み込んだひじょうに興味深い作品である。