約2000回続くサッカー教室 原点は「スキー」と「横浜フリューゲルス」
週末ともなれば全国各地のグラウンドで数多く開催されている子供たちのサッカー教室。コロナ禍でイベント開催がままならなかった時期が過ぎた今、参加者の募集をかければ応募が定員の10倍以上になることも珍しくないという。
1987年に創業し、1991年からサッカー大会などの企画運営に携わる株式会社ザ・ファーストは、国内のスポーツイベント会社としては最古参格。Jリーグとともに30年間を歩み、サッカー初心者の子供を対象とするサッカー教室を手がけるなど、常に成長を続けてきた同社の山本芳裕社長の経営哲学の原点には、「スキー」と「横浜フリューゲルス」への思いがある。
■爆発的だったスキーブーム 1992年には1シーズンに65大会を開催
1987年1月23日。株式会社ザ・ファーストが誕生した。最初にやったのはスキー大会。学生時代にスキー部に所属していた山本氏は、大学卒業後に5年間働いた広告代理店で大学生のスキー大会を企画・運営していた。
「スキーが上手い人間は体育会の競技会で滑ればいい。でも、体育会スキー部の部員が40、50人いる中でインカレに出られるのは10人くらい。試合に出られない学生でも出られる大会を作ろうと考えて企画したら、それがたまたまヒットしたんです」
前職を退社して起業したザ・ファースト社でも、引き続きスキー大会の企画運営をした。1987年といえば、映画「私をスキーに連れてって」が大ヒットした年。全国にスキー場が続々とオープンし、降雪シーズンになれば各地のゲレンデには大勢のスキー客が訪れた。
山本氏が企画するスキー大会は参加者が楽しめて盛り上がると評判になり、話を聞きつけた関係者からの依頼や、学生が社会人になってからも出たいという声を受けて、イベント数は右肩上がりに増えた。
「スキー大会が最多だったのは1992年。1シーズンに、65本の大会をやりました」
■「サッカーには盛り上がる大会がない」
スキー大会が順調に増えていた1991年のことだった。大会の裏方としてアルバイトに来ていた学生が、「スキーをやっている奴らは、こんなに盛り上がる大会があっていいですよね。サッカーにはないですから」とつぶやいた。
同好会でサッカーをやっているという学生が羨ましそうにこぼした一言で、山本氏の心に火がついた。
「昼ご飯を抜いてでもスキーをやりたいという学生のために大会をつくった。じゃあ、サッカーでもやってやろうじゃないか。8チームとか16チームとかなら同好会に声を掛ければすぐに集まるだろう。そう思って動き始めました」
ところが、実際にやろうとすると難題が次々と出てきた。スキーのことなら自分もやっていたから、大会運営に必要なものが何かをおおよそわかってスタートできたが、サッカーに関しては基礎知識がなかった。
ボール、ゴール、レッドカードにイエローカード、コーナーフラッグ、主審、副審。汗を掻き掻き一から勉強していると、その懸命な姿を見たスポーツショップの人が知人の国際審判員や筑波大学のサッカー部を紹介してくれた。筑波大には審判資格を持っている学生が多く、試合に出られない部員を派遣してくれたほか、国際審判員のネットワークからも審判員を集めてくれた。
こうして開いたのが1991年8月の「第1回 関東大学キャンパスカップ」。茨城県高萩市でサッカーグラウンド4面を獲れる場所を借り、16チームが参加。ゲストとしてとんねるずの木梨憲武氏のチームも参加した。
「飲み会の席で“やろうぜ”と盛り上がるだけ盛り上がって、何もやらない人間が私は大嫌い。自分はやる。1番にやる。そして1番になる。社名にはそんな思いを込めています」
■スキー大会から横浜フリューゲルスへ繋がった1本の糸
スキー大会にバイトで来ていた大学生の一言をきっかけに、サッカー大会を企画運営することになったタイミングで始まろうとしていたのが、Jリーグだった。
ザ・ファースト社には元々、旅行部門もあり、全日空の代理店もやっていた。1991年からはサッカーとのつながりもできた。その流れで1991年の暮れに横浜フリューゲルス(当時の名称はASフリューゲルス)から話を受け、1992年6月に沖縄で開催するイベントの運営を任された。
急激にサッカーとのパイプが太くなっていく中で1993年5月15日にJリーグが開幕。その盛り上がりはすさまじかった。フリューゲルスのマスコットの「とび丸」のぬいぐるみは最盛期には8体あった。全日空の戦略により、横浜フリューゲルスは複数のホームタウンを持っていたからだ。
一方でスキーは1992年をピークに、ひと頃の勢いに少しずつ陰りが見えてきた。
「会社の売り上げは、『私をスキーに連れてって』から5年でサッカーに交代していきました。フリューゲルスとの出合いでサッカーの仕事がドカンと増え、やがて会社の売上の中心になり、1998年は売上の85%がフリューゲルス関連でした」
■“ブラジル代表トリオ”獲得時のエピソード
期待も想像も遙かに超える“Jリーグ・ブーム”が訪れると、1993年の開幕時にはさほどの予算をかけていなかったフリューゲルスも、ブラジルからスター選手を連れてくる作戦に出た。
他チームにはワールドカップで活躍した有名選手が在籍しており、鹿島アントラーズにはジーコ(ブラジル)が、名古屋グランパスエイトにはガリー・リネカー(イングランド)が、ジェフ市原にはピエール・リトバルスキー(ドイツ)がいた。
ところが、フリューゲルスで知名度が最も高いのは加茂周監督。横浜市内での営業時でさえ「日産のチーム(横浜マリノス)じゃないの?」と間違われることがあった。
山本氏はフリューゲルスから委託されて1994年12月にブラジルへ飛んだ。狙いはパルメイラスに所属するジーニョ、エバイール、サンパイオの“セレソントリオ”。彼らとの契約と同じ時期にサンパウロへ行き、ちょうど開催されていたブラジル選手権決勝のパルメイラス対コリンチャンス戦へ足を運んだ。結果はパルメイラスが優勝。そのお祭り騒ぎぶりは尋常ではなかった。
同時期にアルゼンチンのブエノスアイレスで行われたボカ・ジュニアーズ対リーベル・プレートの試合にも行ったが、そこでは敗れたボカのサポーターが荒れ狂うのを見た。街中に騎馬隊や放水車が出動し、上空ではヘリコプターが監視する異様な光景だった。
ブエノスアイレスから再びサンパウロに戻ると、今度はジーニョ、エバイール、サンパイオが日本のクラブに移籍するという報道が流れ、「生きて帰るために、フリューゲルスのロゴがついているものはすべて外した」
「サッカーとはとんでもないスポーツだ」と震えた山本氏だが、サッカー伝統国ならではの良き部分に触れる機会もあった。サンパウロ滞在中にパルメイラスのサポーターの事務所を見せてもらった時のことだ。巨大な倉庫が事務所になっており、そこにはおびただしい数のサポーター応援グッズがあった。会員数は30万人以上で、会員情報の管理や運営は目を見張るものだった。
日本に戻った山本氏はすぐにそのノウハウを参考にして、フリューゲルスの私設のサポーターズクラブの改革を行った。応援グッズをザ・ファーストの倉庫に保管し、試合のたびにサポーターが取りに来たり、社員がスタジアムに運んだりし、試合を盛り上げていった。
■消滅が明るみになってから1試合も負けなかった
1998年10月29日。Jリーグ史上最も暗いニュースが明るみに出た。そのシーズン限りで横浜フリューゲルスが消滅し、横浜マリノスと合併することが水面下で決められ、Jリーグもそれを容認しているという。選手、ファン・サポーターをすべて置き去りにした身勝手な決定に、三浦淳宏や吉田孝行、楢崎正剛、サンパイオをはじめとする選手たちは練習後に街頭に立ち、チーム存続のための署名活動を暗くなるまで行った。サンパイオの娘は自分の貯金箱を差し出し、「このお金を使って」と泣いた。
チームはそこからリーグ4戦全勝。負ければ終わりの天皇杯では1999年1月1日の決勝戦まで進み、清水エスパルスとの決勝戦を2-1で制して優勝した。
「フリューゲルスは消滅のニュースが出てからひとつも負けないまま終わったんです。振り返ると、1993年のJリーグ開幕戦の相手もJALがスポンサーをしている清水。なんとも奇遇なことでした」
■“売り上げの85%がフリューゲルス”という大ピンチを救ったのは
横浜フリューゲルスの消滅は、1998年に売り上げの85%をフリューゲルス関連が占めていたザ・ファースト社が、創業以来の危機に直面したことを意味した。ここでピンチを救ったのもサッカーだった。
ザ・ファースト社は1997年から子供たちを対象とする「フリューゲルスカップ」を開いていた関係で、横浜市教育委員会から神戸市教育委員会を紹介されたのだ。神戸市は2002年日韓ワールドカップに向け、1995年1月の阪神淡路大震災から復興していく姿を世界にアピールしたいと考えていた。
山本氏は神戸市やヴィッセル神戸、また、この年からJリーグへ加盟したFC東京の仕事を請け負うことでピンチを乗り切った。
実はこの「フリューゲルスカップ」は、何年もスキー大会をやっている中で感じていたことから生まれた大会だ。
「フリューゲルスカップは、スキーではできなかったことでした。スキー業界は子供たちの育成ができていなかったんです。大会があっても『やるから好きに出てください』というスタンス。地域の子供たちを育てようという意識が見えないまま時が過ぎ、やがてブームが衰退していきました」
山本氏はその様子を忸怩たる思いで見ていた。そして考えた。
「サッカーも最初は勢いでバーッと行ったけど、いつまで続くか分からない」
■楽しみながら子供たちの感謝の心を育てるサッカー教室
その中で力を入れて取り組んだのが、横浜サッカー協会との協力で創設した小学生対象の『フリューゲルスカップ』だった。大会は横浜フリューゲルスの消滅によりともに姿を消したが、ザ・ファースト社はその後もサッカーを通じて子供たちの心身を育むという意義や理念を守るべく、サッカー教室の企画運営を続けた。
それに賛同してスポンサーについたのが朝日新聞。神戸市でも「震災で失われた子どもたちの笑顔を取り戻したい」という市職員の熱意からサッカー教室が始まり、2002年日韓ワールドカップを経て朝日新聞がスポンサーについた。2003年に始まった『朝日新聞サッカー教室』は今も変わらず続いている。
「サッカー教室は年間約80回。通算2000回近く、45都道府県で開催してきました。対象はサッカーの技術を高めたいという子供ではなく、初心者です。まずは青空の下で芝生の上で親子でボールに触れてもらおうという考えが基本にあります。ボールを蹴るって楽しいよね、体を動かすって楽しいよね、ということを伝えるのが私たちの役割です」
サッカー教室で大事にしているのは挨拶だ。それは感謝する気持ちも養っていく。
「最初に大きな声を出しておはようございますと言います。そうしてボールを蹴っていると、初めて会う子供たちが、教室が終わる頃には仲良くなっているんです。さらに子供たちには、寝るまでに必ず一緒に参加してくれた保護者に『今日は一緒に行ってくれてありがとう』のひと言を言うことを伝えています。」
サッカー教室の応募倍率は常に7、8倍以上。特にコロナ禍が明けて通常に戻った今は希望者がひしめいている。
■10クラブから60クラブへ増えたJリーグ「期待しているのはJ3」と山本氏
Jリーグが始まって30年。山本氏の心に最も深く刻まれているのはやはり、横浜フリューゲルスの消滅だ。チームが立ち上がる時から関わり、消滅する最後の日まで関わった。
「そこで感じたのは、どんなスポーツでも一生懸命やってるものをなくしてはいけないということです。フリューゲルスの選手たちは10月29日からひとつも負けない状態で消滅した。優勝しても消滅せざるを得なかったことも含めて、私の中では彼らから感じ取ってきたものが大きいのです」
1993年、10チームからスタートしたJリーグは今、J2、J3を含めて全部で60クラブある。山本氏が今もっとも面白みを感じて期待しているのはJ3。
「これからはJ3のクラブが、子どもたちの笑顔と地域をつなぐ重要なものになっていくと考えています」
山本氏の表情はやる気にあふれている。
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