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ベビーカーから幼児を連れ去ろうとした事件 なぜ誰も助けてくれなかったのか

小宮信夫立正大学教授(犯罪学)/社会学博士
(写真:イメージマート)

ボクサーの妻が誘拐を阻止

先月21日の午前、東京都足立区の歩道で、面識のない女性が押していたベビーカーから1歳の幼児を連れ去ろうとする事件が起きた。

幼児を抱きかかえて連れ去ろうとしたのは自称40代の男で、未成年者略取未遂容疑で逮捕された。男は「自分の子どもが欲しかった」と話しているという。

この事件のニュースを見たボクサーの妻、竹迫麻裕子さんが現場に居合わせたとして、自らの思いをツイッターで次のように披露した(原文ママ)。

このニュースの真相は全然違うよ。ベビーカーから犯人をひっぺがしたのも私、犯人を地面で押さえつけたのも私、その犯人を押さえてくれと周りに頼んだのも私、110番をお願いしたのも私、その私もまた子供をベビーカーに乗せて反対車線へ渡ろうと歩いてました。

最初は夫婦喧嘩だと思ったけど、助けての声が震えてたから慌てて自分のベビーカーを安全な端の美容室の前にとめて、全力で走って向かって男をベビーカーからひっぺがして一緒に転んだけど、無我夢中でそのまま男性を思い切りうつ伏せに押さえつけた所で自分の体重だけでは押さえきれない事をそこでようやく理解して周りの人にこの人を押さえるのを手伝ってと言ってやっと伝わった。

手伝ってくれた人もまた、ずっとその場にいたわけではない方がほとんどです。勿論怖くて動けなかった人が沢山いたのだと思うけど、後で写真を撮ってた人が沢山いたことを聞きました。その人達は?カメラを開く前に110番できたと思う。

(中略)もし何か事件に遭遇したら好奇心よりも保護救助につとめてほしい。自分でどうにかできなくとも、警察を呼んだり何か手立てがないかを探してほしい。勿論証拠も大切だけど、命には変えられない。(中略)でもどうしてもあの状況で誰も助けてくれなかった事が気になって。勿論怖くて動けなかった人は何も悪くないです。

このツイートにある「どうしてもあの状況で誰も助けてくれなかった事が気になって」に対して、犯罪学の立場から説明を加えてみたい。

恐怖は思考より早く起こる

まず、突然危機的状況に追い込まれたときには、ほとんど何もできないだろう。

ニューヨーク大学のジョゼフ・ルドゥーも、「恐怖は思考よりも早く条件反射的に起こる」と述べている。つまり、思考では恐怖心を消せないのだ。

例えば、防犯ブザーの効果を知っていても、突然襲われたときには、それを鳴らそうと思う前に、恐怖で体が硬直してしまうだろう。

恐怖で体が硬直してしまうガラス床 出典:『写真でわかる世界の防犯 ――遺跡・デザイン・まちづくり』(小学館)
恐怖で体が硬直してしまうガラス床 出典:『写真でわかる世界の防犯 ――遺跡・デザイン・まちづくり』(小学館)

危機が起こった後(有事)にどうするかは「クライシス・マネジメント」と呼ばれている。

これに対し、危機が起こる前(平時)にどうするかが「リスク・マネジメント」である。

しかし、信じたい情報ばかり探してしまう「確証バイアス」や、「たいしたことはない」と思い込む「正常性バイアス」が作用するので、よほど気をつけないと、リスク・マネジメントの発想を取ることはできない。

「いやいや、リスク・マネジメントの発想から、人通りの多い道を選んでいるから自分は安全」という声が聞こえてきそうだ。

しかし実際は、人通りのない道よりも、人通りの多い道の方が危険である。なぜなら、犯罪者にとって、獲物のいそうな場所は「人通りの多い道」だからだ。

草食動物がいそうな水場が、肉食動物にとって格好の「狩り場」になるように、人がいそうな場所が、犯罪者にとって格好の「狩り場」になるのである。

「うちの子」を見ているのは親だけ

「いやいや、人通りの多い道なら、目撃者も多いから犯行を控えるだろう」と、そんな反論が聞こえてくる。

しかし、人が多い場所では、そこにいる人の注意や関心が分散し、視線のピントがぼけてしまう。そのため、犯行に気づきにくくなる。

例えば、兵庫県西宮市で女児が女性看護師に連れ去られ重傷を負った事件(2006年)では、多くの人が行き交う駅前広場が誘拐現場となった。

また、長崎市で男児が男子中学生に連れ去られ殺害された事件(2003年)では、買い物客でにぎわう家電量販店が誘拐現場となった。

とかくこういう場所では、親は「誰かがうちの子を見てくれている」と思いがちになる。しかし実際には、そういう場所では誰も「うちの子」を見てはいない。

それだけではない。仮に犯行に気づいても、人が多い場所では、犯行が制止されたり、通報されたりする可能性は低い。

なぜなら、「たくさんの人が見ているから、自分でなくても誰かが行動を起こすはず」と思って、制止や通報を控えるからだ。その場に居合わせた人全員がそう思うので、結局誰も行動を起こさない。

その様子を見て誰かが行動を起こすかと言えば、そうはならない。今度は、「誰も行動を起こさないところを見ると、深刻な事態ではない」と判断してしまうのだ。

キティ・ジェノヴェーゼ事件の教訓

こうした心理は「傍観者効果」と呼ばれている。プリンストン大学のジョン・ダーリーと人間科学センターのビブ・ラタネが、実験によってその存在を証明した。

二人は、仕事帰りの女性が自宅アパート前で暴漢に刺殺されたニューヨークのキティ・ジェノヴェーゼ事件(1964年)に触発され、研究に取り組んだ。

この事件では、38人の目撃者が誰一人として警察に通報せず、見て見ぬふりしたと報道され、その冷淡さが非難されていた。

しかし、ダーリーとラタネの結論は違った――多くの人が被害者を助けなかったのは、その人たちの性格が冷淡だからではなく、その人たちが他人の存在を意識したからである。

例えば、あなたが一人で電車に乗っているとしよう。そこに見知らぬ男が乗り込んできた。と思いきや、バタッと床に倒れた。この場合、あなたは必ず助けるだろう。

だが乗客が30人いたらどうだろう。この場合、一人ひとりの責任は30分の1に減る。つまり、自分でなくても誰かが助けるだろうとみんなが判断する。これが社会心理学の主張である。

熊本市のスーパーのトイレで女児が殺害された事件(2011年)では、犯人の大学生が店内で4時間も女児を物色していた。買い物客や従業員に異様な感じを与えそうだが、ここでも傍観者効果が生まれてしまったのだろう。

早期警戒を心掛ける

では、真のリスク・マネジメントを行うためには、どうすればいいのか。その答えは草食動物が教えてくれる。

草食動物は決して肉食動物のなすがままにはならない。サバンナは「適者生存の法則」が支配する世界であり、強者が必ずしも適者であるとは限らないのだ。その意味で、犯罪弱者である普通の人々が草食動物の防御行動から学ぶべきことは多い。

南アフリカのリスク・マネジメント専門家ガート・クレイワーゲンは、その著書の中で、すべての草食動物のサバイバル術に共通する要素として「早期警戒」を挙げている。早期警戒が、近づいてくる肉食動物の早期発見につながるからだ。

警戒を怠らないクーズー 出典:『写真でわかる世界の防犯 ――遺跡・デザイン・まちづくり』(小学館)
警戒を怠らないクーズー 出典:『写真でわかる世界の防犯 ――遺跡・デザイン・まちづくり』(小学館)

翻って人間社会を見ると、早期警戒を防犯の中心に据えているのか心もとない。

厳しい環境にありながらも、けなげに生きる動物たちの姿は、安全を軽んじる人間社会への痛切なメッセージに思えてならない。

立正大学教授(犯罪学)/社会学博士

日本人として初めてケンブリッジ大学大学院犯罪学研究科を修了。国連アジア極東犯罪防止研修所、法務省法務総合研究所などを経て現職。「地域安全マップ」の考案者。警察庁の安全・安心まちづくり調査研究会座長、東京都の非行防止・被害防止教育委員会座長などを歴任。代表的著作は、『写真でわかる世界の防犯 ――遺跡・デザイン・まちづくり』(小学館、全国学校図書館協議会選定図書)。NHK「クローズアップ現代」、日本テレビ「世界一受けたい授業」などテレビへの出演、新聞の取材(これまでの記事は1700件以上)、全国各地での講演も多数。公式ホームページとYouTube チャンネルは「小宮信夫の犯罪学の部屋」。

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