「首から水筒をかけたら危ないぞ」 女児に声をかけたら、「不審者」として通報された?
先月、奇妙なニュースが流れた。それは下記の通りだ。
(警察は)小学生女児らが見知らぬ男から「首から水筒をかけたら危ないぞ」などと声をかけられる事案が発生したとして、防犯メールで注意を呼びかけた。
「首から水筒をかけたら危ないぞ」 男が小学生女児に声かけ(西日本新聞、2024/7/17)
この報道に対し、ネット界隈で賛否両論、たくさんの意見が飛び交った。
しかし、この情報だけでは、事実ははっきりしない。
例えば、「女児ら」と複数形を使っているが、犯罪目的の声かけなら、普通、相手の子どもは一人だ。
また、「などと声をかけられ」とあるのに、なぜ犯罪目的を見いだしにくい「水筒うんぬん」をあえて取り上げたのか理解に苦しむ。
いずれにしても、子どもの証言の信ぴょう性や、警察官による事情聴取の誘導性を考えると、真相は藪の中と言わざるを得ない。
ちなみに、黒澤明監督の映画『羅生門』にちなんで、こうしたことは「羅生門効果」と呼ばれている。原作は芥川龍之介の小説『藪の中』。ここから「真相は藪の中」という言葉が広まったという。
問題の本質は?
それはさておき、この報道や、それに対するネットの反応の最大の問題点は、事実関係の有無ではない。もっと根源的な「そもそも論」である。それを一言で言えば、「日本人の防犯常識は世界の非常識」ということだ。
「常識とは、18歳までに心にたまった先入観の堆積物にすぎない」と物理学者アルバート・アインシュタインは喝破した。
この指摘通り、日本人は「不審者」という言葉を何度も聞かされ、それが先入観として堆積し、間違った常識になってしまったのだ。
その結果、学校では「不審者に気をつけて」という教育が行われ、地域では「不審者はいないか」というパトロールが行われている。日本の映画やドラマには、異常な顔つき、金髪、奇声といったステレオタイプの「不審者」ばかりが登場している。
しかし、海外では「不審者」という言葉は使われていない。筆者が実施した 100 カ国の現地調査を踏まえて、そう断言できる。
それはなぜなのか。
「不審者」という言葉がまかり通っているのは、日本の防犯対策が「犯罪機会論」ではなく、「犯罪原因論」に支配されているからだ。
犯罪原因論は、犯罪の原因を明らかにしようとする立場。「なぜあの人が?」というアプローチだ。
これに対し、海外では犯罪機会論が防犯対策を担っている。犯罪機会論は、犯罪の機会(チャンス)を明らかにしようとする立場。
「なぜここで?」というアプローチだ。
犯罪機会論によると、犯罪が起きやすいのは「入りやすく見えにくい場所」である。
その具体例、「入りやすく見えにくい道路」「入りやすく見えにくい公園」「入りやすく見えにくいトイレ」については、『あぶないばしょはどっち? 遊んで学べる防犯絵本』や『小宮信夫の犯罪学の部屋』を参照していただきたい。
このように、犯罪機会論では、動機があっても、犯行のコストやリスクが高く、リターンが低ければ、犯罪は実行されないと考える。それはまるで、体にたまった静電気(動機)が、金属(機会)に近づくと、火花放電(犯罪)が起こるようなものだ。
しかし、日本では「場所」に注目する犯罪機会論は普及していない。そのため、「人」に注目する犯罪原因論が防犯対策を支配している。ところが、「防犯」では犯罪はまだ起きていないので「犯罪者」という言葉を使えない。そこで、「不審者」という言葉で煙に巻くしかなかった。
不審者対策の弊害
しかし、「不審者」という言葉を使っている限り、防犯効果は期待できない。
警察庁の「子どもを対象とする略取誘拐事案の発生状況の概要」を用いて、小学生以下の連れ去り事案を推計すると、子どもの8割がだまされて自分からついていったことになる。実際、宮﨑勤事件、サカキバラ事件、奈良女児誘拐殺害事件も、だまして連れ去ったケースだ。
なぜ、だまされるケースが多発するのか。それは、子どもを「人」に注目させているからだ。本当の犯罪者は、日本の映画やドラマに登場するような犯罪者ではない。本当の犯罪者は、普通の大人を装い、目立たないように振る舞う。
さらに、「不審者」という言葉を使うと副作用も大きい。
例えば、無理やり「不審者」を発見しようとすると、平均的な日本人と外見上の特徴が異なる人の中に「不審者」を求めがちになる。そうなると、不審者扱いされてしまうのは、外国人、ホームレス、知的障害者だ。
これでは、差別や排除が生まれ、人権が侵害されてしまう。人権が尊重されない社会では、犯罪という人権侵害もはびこる。
実際、間違った地域安全マップが多数作製され(実態は不審者マップ)、そこには、知的障害者やホームレスが登場している。
もちろん、筆者が考案した「地域安全マップ」は、犯罪機会論に基づいているので、そこには「人」は一切登場しない。
このように、「不審者」に注目するやり方では、子どもにこの世は敵だらけと思わせ、子どもは大人から遠ざかる。
それだけでなく、大人も子どもから離れていく。誰だって、子どもに近づいて不審者に間違われたくはないからだ。
「不審者」という言葉を使っていると、子どもと大人の距離が開き、犯罪者はそこに入ってくる。人間不信が増幅され、犯罪から守り合う関係が破壊されればされるほど、犯罪実行には好都合だからだ。
最後に、冒頭のニュースについて考え方を示しておきたい。
「首から水筒をかけたら危ないぞ」と声をかけられた場所が、安全な「入りにくく見えやすい場所」なら、「分かりました。ありがとうございます」と答える。
逆に、危険な「入りやすく見えにくい場所」なら、「すみません」と言って、速やかに立ち去る。
「人」を見て安全と危険を識別するのではなく、「景色」を見て安全と危険を識別するのである。
犯罪原因論から無理やり引き出した「不審者」という言葉。しかし、その言葉を使った方法は、プラスの効果がないばかりか、マイナスの効果を生んでしまう。
場所(景色)に注目する犯罪機会論へのコペルニクス的転回(発想の転換)が望まれるゆえんである。