『ブギウギ』の養母は嫉妬の人であった 歴代朝ドラ「養母とヒロイン」の関係からわかること
生母がいることを話さないでくれと言い残した養母(水川あさみ)
『ブギウギ』でヒロインの養母つや(水川あさみ)が死んだ。
「あの子の生母は別にいるということを、私が死んでも、あの子には話さないでくれ」と養母つやは言い残していた。
なかなか手厳しいセリフである。
これはモデルの笠置シヅ子が自伝に書いている実話をもとにしている。
笠置シヅ子が語る養母の真実
ただ詳細は少し違っている。
笠置シヅ子は「芸人は親の死に目には逢えない」との言葉どおり、実際に母親の死に目に逢えなかったらしい。
危篤の報を聞いたとき、演出家らは、大阪に戻れるように動いてくれたらしいが(ここがドラマとは違う)、仕事量が多くてどうにもならず、本人は覚悟のうえで舞台を続けた。
そして死に目に逢えなかった。
養母はそれを踏まえて、発言している。
笠置シヅ子の養母は嫉妬深い人であった
養母は、娘に逢いたい逢いたいと病床で言い続けていたのだが、危篤の報を聞いても娘が帰ってこず、「大役がついているのでどうしても帰れない」という電報が届いた。
そのときにこう言ったそうだ。
「そんなら、あの子も東京でどうやらモノになったのやろ。わてはそれを土産にしてあの世へ行きまっけど、わてが死に目に逢うてない子を、生みの親の死に目にも逢わせとない。わてが死んだあと、決して母が二人あることをいうておくれやすな」
母も相当の焼き餅屋やったようで、こういうところは私も母に似ています、と笠置シヅ子は書いている。
母も私も嫉妬深いと書いて、母恋いの気持ちが垣間見える。
たしかにかなり勝手な遺言である。ドラマでは養母をそういうふうに描いてなかったので、ちょっと唐突な感じがあった。
でも、ドラマは死に目に逢えているから、それでよしとするしかない。そういう脚色は心安まる。
養母の朝ドラはけっこう多くたとえば『おちょやん』
朝ドラには「生みの親と育ての親が違う」という作品がけっこうある。
近いところでは、6作前、杉咲花の『おちょやん』(通算103作目・2020年後半)。
実母(三戸なつみ)はヒロインが幼いころに亡くなり、ぐうたらの父(トータス松本)が後妻(主人公から見れば継母)の栗子(宮澤エマ)を家に連れ込んでくる。この継母との折り合いがわるく、ヒロインは幼くして奉公に出ることになった。
なかなか悲しい幼少期である。
また、ずいぶん経ってからこの母娘二人が一緒に暮らすようになる。そこは感慨深かった。
100作めの『なつぞら』のヒロインは戦災孤児
その3つ前、広瀬すずの『なつぞら』(通算100作目・2019年前半)ではヒロインは戦災孤児であった。
1話で空襲のシーンがアニメーションで描かれ、それが終わると父母がいなかった。
父の戦友(藤木直人)に引き取られ、北海道につれていかれたが知り合いはいない。養母となる富士子(松嶋菜々子)にしがみついて泣いた姿はいまおもいだしても泣けてくる。
生母が死んでいるので養母をしっかり母と呼ぶ、というパターンである。
『てっぱん』や『だんだん』もまた養母に育てられる
さかのぼるともっとある。
2010年後半の『てっぱん』(通算83作目)、主演は瀧本美織、生みの親は亡くなっており、養父母に育ててもらっていた。ただ、ヒロインはそのことを高校3年まで知らなかった。(ドラマの冒頭に近いところですが)、そういう設定であった。やがて亡き生母の人生を追いかけてるように歩みだして、そのことにあとから気づく。
2008年後半の『だんだん』(通算79作目)は、三倉茉奈・佳奈姉妹が主演で、べつべつに育てられた双子の物語だった。
書いてて川端康成の小説『古都』と設定が同じですやん、といまさらながらおもう。
姉の茉奈が演じた「めぐみ」が実の父(吉田栄作)とその後妻の養母(鈴木砂羽)と島根で暮らしており、妹の佳奈が演じた「のぞみ」は芸妓の実の母(石田ひかり)と京都で暮らしていた。
その二人が出会って、あまりに似ているのに驚いて、やがて交流の始まる物語であった。
『オードリー』は養母と実母が同時に存在していた不思議な作品
さらに遡ると2000年後半の『オードリー』(通算53作目)、主演は岡本綾で、見なくなりましたねえ(いまは女優ではないらしい)。
このドラマでは実母(賀来千香子)が元気でいるのに、隣家の旅館の女将(大竹しのぶ)に奪われるようにして育てられるという、かなり変わった養母の存在があった。
どうも脚本の大石静の生い立ちを反映しているらしく、母子の設定はその実話から採っていたらしい。
だから、かえって理解しにくくなっていた。
現実に起こったことだからといって、多くの人が納得できるものではない。
『すずらん』は北海道の捨て子のお話
1999年前半の『すずらん』(通算60作目)は主演は遠野凪子で、北海道の駅舎に捨てられていた捨て子であった。
育てたのは駅長(橋爪功)。彼が養父で、妻をなくしていたため養母に当たる人がいない。
生母を探してのちに出会うことができた、という物語であった。
このころほぼ現代劇ばかりだったので、明治生まれが主人公のこの朝ドラはとても新鮮であった。
1980年前後には生母のいない朝ドラが連続する
さらに遡ると昭和に放送されたものになる。
昭和時代は、養母ものが多い。
1985年後半『いちばん太鼓』(通算35作目、主演は岡野進一郎)
1981年前半『まんさくの花』(通算27作目、主演は中村明美)
1980年前半『なっちゃんの写真館』(通算25作目、主演は星野知子)
1979年後半『鮎のうた』(通算24作目、主演は山咲千里)
1978年後半『わたしは海』(通算22作目、主演は相原智子)
このあたりが生母には育てられていない朝ドラである。
1980年前後になぜか固まっている。
とくに1978年秋から、1981年春まで、6作中4作が生母と暮らしてない朝ドラだった。
日本国じたいが、ひょっとしたらもう貧乏ではないかもしれない、と気づき始めたころである。それを反映しているのかもしれない。
1974年『鳩子の海』は戦争で記憶をなくした少女のお話
さらにさかのぼると、1974年、一年ものの最後、『鳩子の海』(通算14作目、主演は藤田美保子)は戦災孤児の物語だった。
戦争中に記憶をなくしていた少女を見つけた村人たちが、彼女を育てたお話である。養母役は小林千登勢だった。
子役が印象に残っている。たしか朝ドラにヒロインの子役時代がある端緒だったようにおもう。
子役の斉藤こず恵が大人気となり話題になった。個人的には斉藤こず恵のシーンばかりがおもいだされて、東京での1960年代若者シーンは、あまり憶えていない。
1971年『繭子ひとり』の母は出奔している
もう少し前の1971年(一年もの)『繭子ひとり』(通算11作目、主演は山口果林)、これも父母がいなくなって、叔父夫婦に育てられた少女の物語だった。
叔父夫婦だから、養母ものというほどではないけど、まあ、古いやつなので挙げておく。
さすがにこのへんは、見ていた記憶はあるのだが、細かい部分はほぼ憶えていない。
生母(草笛光子)はヒロインの弟を連れて出奔している。
かなり「母恋い」ドラマの要素が強い。
最初から母がいない朝ドラもある
以上が養母もの(および生母に育てられていない)朝ドラである。
それ以外にも、もとから母が死んでいる、ないしは始まってすぐに死んでしまったたパターンのものもけっこうある。
養母や継母が出てこず、姉兄やら家族やらで育てられるというドラマである。
たとえばすぐ前の2023年前期『らんまん』(通算108作目、神木隆之介主演)はそうだった。母(広末涼子)はすぐに亡くなってしまい、あとは祖母(松坂慶子)に育てられた。
あとは『べっぴんさん』(2016年後半、95作目、芳根京子主演)や『純情きらり』(2006年前半、74作目、宮崎あおい主演)、『ぴあの』(1994年前半、51作目、純名里沙主演)『君の名は』(1991年春から一年、46作目、鈴木京香主演)、なども母は早めに亡くなるか、もともと最初からいなかったか、そういうドラマであった。
生母に育てられないのは朝ドラお馴染みのパターン
実の母と育ての母が違う、というのは、わりと朝ドラではお馴染みのパターンなのだな、とあらためておもう。
育ててくれた母とは別に、本当のお母さんがいるのだ、という話は、たしかに心のどこかに触れてくる。
血がつながっていないのに育ててくれた母、という存在もとても大きい。だから繰り返し作られる。
特に昭和のころは、「生母は誰なの」という物語が好まれていた。
もちろん21世紀でも「母恋いの物語」は根強く人気があるのだが、昔のほうが「時代や貧乏のせいで」母子が離れ離れになるという設定が真に迫って、共感しやすかったのだとおもう。
うちも、ひとつ逃げ間違えたら、ああなっていたかもしれない、というような共感である。
もちろんいまでもそういう物語は、形を変えてはいるが、求められている。
また、養母の物語は作られるはずだ。