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苦手サウスポー専用バットも効果なし――落合博満の大失敗3【落合博満の視点vol.22】

横尾弘一野球ジャーナリスト
大洋時代の間柴茂有投手。落合博満はスライダー回転のストレートに苦労させられた。(写真:岡沢克郎/アフロ)

「私が監督を務めた時の中日が強かったのは、2004年に優勝して自信をつけたのはもちろんだけど、その翌年(2005年)に負けたのが大きかった。勝つ味を知る人間が負けると、『もう負けたくない』と本気で思うからね」

 そう言って落合博満は、成功体験だけでなく、失敗することの大切さも説く。では、現役時代の落合は、どんな失敗をしてきたのだろうか。現在でも「若気の至り」と苦笑する大きな失敗のひとつは、苦手投手専用のバットを作ったことだ。

 落合は1981年に首位打者を手にして頭角を現したが、どうしても打てなかった投手がいた。日本ハムのサウスポー・間柴茂有である。比叡山高から1970年にドラフト2位で大洋ホエールズ(現・横浜DeNA)へ入団した間柴は、1978年に日本ハムへ移籍すると先発に、リリーフにフル回転の活躍。落合が首位打者となった1981年には、15勝0敗で最高勝率に輝く。21年間の現役生活でちょうど500試合に登板し、通算81勝を挙げている。

 間柴のストレートはややスライダー回転し、それが右打者のヒザ元に絶妙にコントロールされる。本当に微妙なコースゆえ、ボールと判定する球審もいるのだが、落合にはストライクに見えるから見送るわけにはいかない。だが、そのボールを打ってもファウルにしかならず、フェアグラウンドへ打ち返そうとすればサードゴロになってしまう。

 もちろん、カウントによって間柴はシュートやフォークボールも投げ込み、落合はそうしたボールは打ちこなしていたから、間柴の先発が発表されると「今日はダメだ」とまでは思わない。ただ、ヒザ元のボールを自分のイメージ通りに打ち返せないことに、何とも言えないじれったさがあったという。しかも、こういうボールに出合った落合は、ヒットにするだけでは気が済まず、どうすれば本塁打にできるのか考えてしまうのだ。

バットの長さを変えること自体は間違いではない

 当時、落合は34.5インチ(約87.6cm)のバットを使っていた。しかし、このバットをどのように操作しても、間柴の魔球をイメージ通りに打ち返せない。そこで思いついたのが、同じ型で1インチ短くしたバットを使うことだった。

「1インチ短くすることで、詰まり気味になるボールを真芯でとらえられるんじゃないかと考えた」

 ペナントレースの只中ではあったが、メーカーに1インチ短いバットを3本特注し、出来上がってきたものにはマジックで『間柴用』を書き込む。このバットを手にする度に、間柴の魔球を攻略するという強い意志を再確認しようとした。そうして、33.5インチのバットで間柴に対峙したが、打率.200、2打点と期待した結果は得られなかった。ちなみに、日本ハム戦での成績は打率.293、8本塁打23打点。いかに間柴に苦労されられていたかがわかる。

「当たり前のことだけど、バットを1インチ短くすれば、スイングにも微妙な変化が生まれる。詰まり気味だったものが芯に当たると考えたのは、若気の至りとしか言えない」

 ただ、そうやって数字を残そうとしたことに後悔はない。

「1992年にヤクルトへ入団したジャック・ハウエルは、伊勢孝夫コーチのアドバイスでメジャー・リーグの時よりも半インチ短いバットを使い、首位打者と本塁打の二冠を手にした。バットを変えるという手段自体は、間違いではないということだろう」

 この落合の大失敗から読み取れるのは、自分の商売道具であるバットに関して、強いこだわりと繊細な神経を持つべきということだ。それから、普段と同じバットで間柴に挑んだ落合は、通算では打率.361、6本塁打と借りを返している。

野球ジャーナリスト

1965年、東京生まれ。立教大学卒業後、出版社勤務を経て、99年よりフリーランスに。社会人野球情報誌『グランドスラム』で日本代表や国際大会の取材を続けるほか、数多くの野球関連媒体での執筆活動および媒体の発行に携わる。“野球とともに生きる”がモットー。著書に、『落合戦記』『四番、ピッチャー、背番号1』『都市対抗野球に明日はあるか』『第1回選択希望選手』(すべてダイヤモンド社刊)など。

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