【幕末こぼれ話】会津一の美女・中野竹子は涙橋の戦いに散った!
今日8月25日は、幕末の会津戦争で娘子軍を率いて戦った中野竹子の命日である。竹子は武芸にたけた女傑であっただけでなく、会津藩でも随一といわれた美人だった。
写真が残っていないのが惜しまれるが、のちに描かれた肖像画を見るかぎりでも、凛とした美しさを持った人であったことが伝わってくる。
そんな竹子が22歳で出陣し、銃弾に倒れた場所は、湯川にかかる柳橋。この橋は別名を「涙橋」といい、偶然ながら竹子たちの流した涙を思わせる呼び名となっている。
風呂ののぞき見、許すまじ
中野竹子は会津領の坂下(ばんげ)で、文武の師匠・赤岡大助の道場に住み込んでいたことがある。そこで近隣の子供たちを集めて読み書きを教え、娘たちには薙刀を教授した。
鬼のような赤岡先生のところに、若くて美人の女先生がやってきたのだから、町の若者たちは色めき立った。用がないのに赤岡家に近づき、竹子の様子を遠巻きに見る。
坂下には湯屋(銭湯)もあったが、いまだに男女混浴だったため、竹子はそれを嫌っていつも赤岡家の風呂で入浴した。すると若者たちのなかには好奇心を抑えきれず、庭に忍び込んで入浴中の竹子をのぞき見する者もあったという。
見られていることに気づいた竹子は、静かに風呂から上がり衣服を整え、たすきがけして薙刀をとり、猛然とのぞき見の若者に斬りかかった。
若者は驚き、必死になって逃げたが、竹子は駆け足も男並みに速かった。若者は逃げまわったあげく、ついに竹子に追いつかれ、危うく討ち果たされそうになったのだった。
もとより破廉恥な若者をこらしめようとしただけのことだから、竹子もそれ以上はせず、薙刀を納めた。そして若者をきつく叱り、謝罪させた上で許してやったのである。
涙橋で銃弾に散る
会津城下に新政府軍が迫った慶応4年(1868)8月25日、竹子は母こう、妹の優子、ほかに依田まき子、依田菊子、岡村すま子とともに薙刀を携えて戦場に出た。後世に娘子軍と呼ばれたのは、わずかにこの6人のことだった。
味方の衝鋒隊に加わって高久から鶴ヶ城に向けて進軍した竹子らは、途中の涙橋付近で新政府軍に遭遇し、戦闘となった。すると敵の隊長らしき者が、竹子らが女であることに気づき、「討たずに生け捕れ」と叫んだ。
もし生け捕りになれば、どのような辱めを受けるかわからない。竹子らは、「生け捕られるな、恥辱を受けるな」と声をかけあい、必死になって薙刀をふるった。
しかし次の瞬間、一発の銃弾が竹子めがけて飛来した。弾は竹子の胸に命中し、無双の竹子もたまらずその場に崩れ落ちた。
胸を撃たれたとしているのは「烈女中野小竹伝」という伝記だが、娘子軍の依田菊子は「額に弾丸を受けて斃れました」と証言している。おそらくは額を撃たれたというのが事実で、伝記のほうは竹子の最期をなるべく美しく叙述しようという配慮だったのだろう。
娘子軍のなかで戦死したのは竹子ひとりであり、あとの5人はなんとか戦場を脱出して、鶴ヶ城に入城した。そう考えると、竹子自身も脱出して退却することは容易にできたと思われるのに、あえてそれをせず敵の前面に出て奮戦したことが想像される。
このように強く、勇敢で、美しい女性が幕末の会津にいたことを、私たちは記憶しておきたいと思うのである。