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新憲法の是非を問うエジプト国民投票:中東・北アフリカの流動化が加速する日

六辻彰二国際政治学者

1月14、15日、エジプトで新憲法の是非を問う国民投票が実施されます。これは2011年2月のムバラク政権崩壊に始まる、エジプトにおける政治変動の大きなターニングポイントになるとみられます。同時に、2013年7月のクーデタ後のエジプトをめぐっては、域外の大国だけでなく、周辺諸国の対応は分かれています。2010年12月、チュニジアを起点に広がった政治変動「アラブの春」は、民主化という観点からみれば、多くの国で順調とは言い難い道を辿っていますが、他方で中東・北アフリカをめぐる国際環境は流動化が激しく、エジプトの国民投票はその両方の意味において重要な意味をもちます。

軍事政権によるMBの取り締まり

2011年2月、エジプトを30年間にわたって支配したムバラク政権が崩壊しました。体制転換後、これを主導した勢力の一つであるイスラーム主義組織・ムスリム同胞団(MB)が、一時的に棚上げにしていた旧政権派との対立に直面し、それとの対立の中で徐々に世俗的なリベラル勢力とも確執を深め、最終的に2013年7月のクーデタで倒された経緯については、以前に述べたとおりです。

事実上の軍事政権であるエジプト暫定政府においては、第一副首相でありながらも陸軍大将や国防相、さらに軍最高評議会議長を兼任するアブデルファタフ・サイード・シシ氏が、アドリ・マンスール暫定大統領(元最高憲法裁場所長官)やハゼム・ベブラウィ暫定首相(元財務相)をも上回る、最高権力者とみられています。シシ国防相やマンスール大統領は、ムバラク時代も軍や裁判所の要職にあった人物で、基本的に暫定政府は旧ムバラク政権に近い立場にあります。その意味で、クーデタ直後の8月22日、2011年2月の抗議デモで800人以上が死亡したことの責任を問われ、拘留中だったムバラク氏が裁判所によって保釈されたことは、不思議ではありません。

一方、暫定政府はクーデタ直後から、MBの最高指導者ムハンマド・バディア氏を拘束したほか、カンディール前首相などMBメンバー2000人以上を相次いで逮捕・拘禁。9月には軍事法廷が軍と衝突したMBメンバー52名に終身刑を含む有罪判決を下し、さらに11月4日にはモルシ前大統領らに「2012年12月デモ参加者の殺害を先導した罪」を問う裁判が開始されました。

これに対してモルシ派の抗議デモが展開され、8月15日にはカイロで警官隊による強制排除によって270名以上が死亡する事態となり、暫定政府は非常事態を宣言しました。9月24日にはMBの活動を禁止する裁判所命令が出されましたが、その後も両者の対立は収まらず、10月6日にはカイロなどでMB支持者と警官隊が衝突し、50人以上が死亡。その後、非常事態宣言は11月12日に解除されたものの、11月24日にはデモを規制する法律が発効し、MBなどイスラーム組織だけでなくリベラル派の活動も制約されるようになりました。そして、12月24日に暫定首相はMBを「テロ組織」と宣言するに至り、暫定政府はMBと全面的に敵対する意思を、改めて表明したのです。

周辺諸国の反応 (1)トルコ

7月のクーデタに対して、欧米各国の政府では「民主的に選出された政府を転覆させたもの」として、基本的に批判的なトーンが強いといえます。一方、中ロは静観の構えです。これら域外の大国の動向に動向に関連して注目すべきは、周辺国の対応です。

MBを中心とするモルシ政権が事実上の軍事政権である暫定政府にとって代わられたことは、周辺国に大きく二通りの反応を生みました。一方にはトルコ、カタール、チュニジア、そしてイランのようにMBに好意的で、その裏返しとしてエジプト暫定政府に批判的な諸国があります。他方にはサウジアラビア、アラブ首長国連邦(UAE)、バーレーン、クウェート、そしてシリアなどエジプト暫定政府を支持する諸国があります。この状況は、中東・北アフリカに数多くの断層があることを示しています。

エジプト軍事政権に対して、最も明確に対立しているのはトルコです。270人以上の死者を出した8月15日のMB強制排除を、トルコのエルドアン首相は「大虐殺」と呼び、さらに反モルシ・クーデタは「イスラエルの陰謀」とも主張。相次ぐ非難に対して、11月にはエジプトが駐カイロ・トルコ大使を追放し、これを受けてトルコ側も駐アンカラ・エジプト大使を追放するなど、外交上の対立はエスカレートしています。

トルコは共和国としての独立以来、世俗主義を旨としてきましたが、2002年に選挙で政権についた公正発展党(JDP)は、イスラーム的な価値観を重視する政党です。そして、その支持母体の一つには、1969年にトルコで活動を始めた、トルコのMBがあります。つまり、トルコ現政権とモルシ派はMBを通じて同根といえます。さらに、クーデタの発生した7月以降、トルコでは各国のMB系組織が相次いで会合を開いており、ここにはチュニジア、ヨルダン、スーダン、アルジェリア、モロッコ、リビア、マレーシアなどから代表者が集っています。これらの各国のうち、MB系組織が政治的に多少なりとも発言力をもつチュニジアやヨルダン、マレーシアの政府が、エジプト暫定政府に批判的なことは、不思議ではありません。いわば、トルコはイスラーム世界における反エジプト暫定政府派の「扇のかなめ」といえるでしょう

周辺諸国の反応 (2)イラン

トルコとともに目立つのが、イラン政府の反応です。

1978年、エジプトはキャンプ・デービッド合意でイスラエルとの単独和平に踏み切り、それ以来米国とも友好関係を築きました。翌1979年、一方のイランではイスラーム革命が発生し、同国は米国と敵対するようになります。イスラーム革命後、エジプトとイランは国交を断絶し、両国の間には冷たい関係があったのですが、なかでもムバラク政権の末期にその関係は極度に悪化しました。2009年4月、エジプト当局はイスラエルでテロ活動を行うためにエジプト国内で拠点を築いていたとして、ヒズボラのメンバー49名を逮捕し、ヒズボラだけでなく、そのスポンサーであるイランに対しても激しい非難を展開したのです。

極度に悪化したイラン-エジプト関係は、しかしムバラク政権の崩壊で大きな転機を迎えました。2013年2月6日、イランのアフマディネジャド大統領(当時)はエジプトを訪問。国交断絶以来、初めてといっていい友好関係は、イラン側からみれば、もともとイスラーム世界で対立しがちなサウジアラビア(後述)に対抗してアラブ圏に友好国を確保し、シリア情勢や自らの核開発問題などをめぐる国際的な孤立を緩和する目的があったとみられます。一方、米国一辺倒だったムバラク政権と異なり、周辺国との関係も顧慮していたモルシ政権にとって、米国と敵対するイランとの友好関係はエジプトの外交的独立への一歩だったといえるでしょう。

しかし、2013年7月のクーデタにより、両国の関係は再び冷たいものに変わりました。2013年10月2日、両国の関係改善にともなって計画が進められていた観光客の往来に関して、エジプト側は「安全保障上の理由から」これを延期することを発表。さらに1月6日、イラン外務省がエジプトでの抗議デモで死傷者が出たことに「懸念」を示したことに対して、エジプト政府はイラン政府に対して「全面的な非難」の意思を示しました

周知のように、イランはレバノンのヒズボラへの支援、シリア・アサド政権への支援、核開発問題などをめぐって欧米諸国と敵対しています。そのイランが、期せずして欧米諸国とともに暫定政府に批判的な立場に揃って立つことになったのは、中東・北アフリカの政治的な断層の複雑さを象徴します。

周辺諸国の反応 (3)サウジアラビア

2012年の選挙でFJPとモルシ氏が勝利した際、イスラーム政権の誕生に懸念と警戒を示した欧米諸国に対して、これを擁護したのがサウジアラビア、UAE、クウェート、バーレーンなど、ペルシャ湾岸の大規模産油国でした。これらはいずれも、王族支配の保守的なイスラーム国家ですが、イランのように欧米諸国と敵対しない、いわば穏健派イスラーム諸国といえます。王制でないとはいえ、モルシ政権の支持基盤であるMBはスンニ派というカテゴリーで共通し、さらにMBが政治権力を握ることでより過激なイスラーム勢力の台頭を抑えられる、という目算がこれら湾岸諸国にはあったものとみられます。

ところが、これらの多くは暫定政府を支持しており、なかでもサウジ、UAE、クウェートはクーデタから間もない時期に120億ドルの資金援助を申し出ています。リビア内戦において反カダフィ勢力を支援したように、あるいはシリア内戦においてアサド政権に批判的なように、これらの諸国は基本的に欧米諸国と友好関係を維持しています。しかし、エジプト暫定政府に関しては、欧米諸国との温度差が顕著といえるでしょう。

モルシ政権との良好な関係や、欧米諸国との齟齬を踏まえて、サウジなどがエジプト暫定政府に好意的であることを考える場合、その大きな背景としては、イランおよびシリアとの関係をあげることができます。

サウジアラビアとイランは、OPEC原加盟国のなかでも指折りの産油国という共通項をもちながら、スンニ派とシーア派、アラブとペルシャ、親米と反米、王制と共和制と、ことごとく対立しています。そして、先ほども触れたように、(湾岸諸国にとって目下最大の懸念である)シリア内戦において、サウジアラビアとイランは反アサド、親アサドで対立関係にあります。先述のように、サウジアラビアは欧米諸国からの懸念に対してモルシ政権を擁護しただけでなく、これに対して軍事援助などを提供し、友好関係を築きましたが、そこにはイスラーム世界におけるイランの台頭を抑制する意図があったという観測もあります。

いずれにせよ、サウジもイランもエジプトを自分たちの味方に引き付けようとしたのですが、モルシ政権が目指した「全方位外交」は、結果的にサウジ-エジプト関係を微温的なものにする効果をもちました。2012年9月10日、モルシ政権はシリア問題を協議するため、サウジアラビア、トルコ、イランの政府関係者をカイロに招きました。イランはサウジやトルコがシリア反体制派を支援していると非難しています。そのため、このカルテットでの協議はほとんど進展しませんでしたが、いずれにせよモルシ政権がイランの立場に相応の理解を示すことは、特にサウジアラビアにとって受け入れがたいものだったといえるでしょう。実際、サウジ政府はこのカルテットからすぐに姿を消しています。

モルシ政権との関係が微温的なものになっていたことに加えて、エジプトが「第二のシリア」になる事態は、サウジアラビアなどにとって避けたいシナリオです。その観点からすれば、事実上の軍事政権であるエジプト暫定政府を支援することは、サウジアラビアなどにとって混乱を最小限に食い止めるためと理解できるでしょう。

米国が抱えるジレンマ

カイロ在住の、EU議会ALDEグループの代表である Koert Debeuf によると、クーデタ後のエジプトにおける米国の位置づけは、とても「特別」なものといいます。つまり、米国は反モルシ(親・暫定政府)、親モルシ(MB)のいずれからも、「自分たちの相手を支援している」とみなされているというのです。

米国が30年間にわたってムバラク政権を支援していたことは確かです。一方、ムバラク政権の末期、抗議デモで多数の死傷者が出るに及んで、米国はムバラク政権との関係を断ちました。以来、サウジアラビアなどの擁護があったことに加えて、エジプトで初となる民主的な選挙で選出されたこと、さらに行き過ぎたイスラーム本質主義への反動から、オバマ政権はモルシ政権との関係構築を模索し続けました。2012年9月、(米国が支援したムバラク政権と敵対し続けた、つまり米国に対して必ずしも友好的な感情を持ちえない)モルシ氏が大統領として初めて米国を訪問する直前、オバマ大統領はインタビューに応じて「我々はエジプトとの同盟関係を懸念することはないし、彼らを敵として懸念することもない」と述べています。

ところが、クーデタによって、エジプトと関係を再構築するデリケートな作業は、さらに困難なものになりました。民主的な選挙を経た政権が軍事力で転覆されたことを容認することは、ムバラク政権時代の悪名を再び覚悟せねばならず、それはただでさえ信頼が揺らいでいる米国の「民主主義の守護者」という看板にさらに傷をつけることになります。そのため、米国は多くの死傷者を出す衝突を非難し、さらに拘束されたモルシ氏の釈放をエジプト政府に求めるなど、暫定政府を批判する立場を示しました。

その一方で、米国政府は7月のクーデタを公式に「クーデタ」と認めていません。そのうえで、クーデタ直後の7月9日、米国政府はエジプト向けの援助を継続する意思を示しました。米国の国内法によれば、「クーデタで政権を握った政府に援助を提供すること」は禁じられています。関係を遮断するこによりエジプト政府へのコントロールを失うことを恐れる一方、民主的な手順を踏まない政府を公式に認められないジレンマが、この対応を呼んだといえるでしょう。

しかし、その後のエジプトでは、先述のようにMB関係者の拘束や親モルシのデモ隊と警官隊の衝突、さらにデモの規制などが相次ぎ、そのなかで10月に米国政府は数億ドル分の軍事援助と2億6000万ドル相当の資金援助の凍結を発表。さらに11月には、エジプトを訪問したケリー国務長官が、「暫定政府との協力維持」を明言する一方、クーデタ直後から暫定政府が示している、新憲法の導入をめぐる国民投票から大統領選挙、議会選挙に至る「ロードマップ」の実施が重要であると強調しました。

これにより、米国政府は「選挙が実施されれば援助を再開する」旨のサインを出したと言えます。同時に、それは「選挙で選出される政府は問わない」という前提を含んでいるといえるでしょう。つまり、選挙さえ予定通りに行われれば、暫定政府を握るシシ国防相が大統領になっても、軍事援助が再開されることを暗に示したと理解できます。

とはいえ、暫定政府とMBの双方からみた場合、この対応が少なくとも「自分たちに協力的でない」とみられることは避けられません。暫定政府からすれば、軍事援助を餌に、内政への関与を強めようとする姿勢に映ります。他方、MBからすれば、部分的に凍結したとはいえ、暫定政府に援助を提供しただけでなく、暫定政府が示したロードマップに沿った選挙の実施を認めたこと自体、米国がMBの側にいないことを意味します。これに鑑みれば、Debeuf のいう「特別」な位置づけは、概ね妥当といえるでしょう。

ロシアの接近

このようなジレンマに直面する米国がエジプトへの関与に苦慮している間に、同国へ急接近を図っているのが中ロ、なかでもロシアです。友好関係にあったカダフィ体制が崩壊した後、北アフリカでの足場を求める中ロにとって、米国-エジプト関係がギクシャクする様相は「狙い目」です。実際、体制転換の後の政治的混乱を背景に、米国企業が対エジプト輸出額を減らすなか、これを補うようにして中国、ロシアの対エジプト輸出額が増加しています。

特にロシアにとって、エジプトは因縁の土地でもあります。1952年、エジプトで「自由将校団」の革命がおこり、米英の支援を受けた王政が打倒されました。自由将校団を率い、後にエジプト初代大統領となったガマール・アブドゥル=ナセルは、パレスチナ解放とアラブ民族の統一を掲げ、王政時代からの友好国であった米国との関係を見直し、ソ連に接近しました。エジプト近代化の象徴であったアスワン・ハイ・ダムが、ソ連からの資金援助で建設されたことは、その象徴です。ソ連からの援助は軍事面でも同様で、エジプト軍はその後の中東戦争を、ソ連製兵器で戦うことになります。

ところが、ナセルが死亡し、後を受けたサダト大統領のもとで、先述のキャンプ・デービッド合意(1978)が結ばれ、エジプトは米国との友好関係を回復しました。冷戦の国際環境下、それは自動的にエジプトがソ連との関係を断ったことを意味しました。当時のソ連の感覚では、「飼い犬に手を噛まれた」に近いものがあったかもしれません。いずれにせよ、冷戦終結の後もロシアにとってエジプトは、スエズ運河を有する地理的条件やアフリカ大陸5位の産油量、さらにアラブ圏有数の軍事力といった魅力をもちながらも、縁遠い国だったといえるでしょう。

ところが、昨年10月9日に米国がエジプト向け軍事援助の凍結を発表し、エジプト政府がこれを非難してから、わずか約1ヵ月後の11月14日、シシ国防相はエジプトを訪問したロシアのラブロフ外相と会談し、軍事協力について基本的に合意したのです。内容の詳細については不明ですが、イスラエルの報道ではミグ21戦闘機を含む40億ドル相当にのぼり、そのうちほぼ半額はエジプト側が(湾岸諸国からの援助で)負担することと伝えられています。

しかし、その数値の真偽よりさらに重要なことは、ロシアから軍事援助を受けるという可能性を、それが例え米国に対する外交上のブラフであったとしても、エジプトが示したことです。米国のメディアでこれが危機感をもって伝えられたことは、不思議ではありません。いずれにせよ、エジプトが中東・北アフリカにおける米ロの一つの大きな焦点になったことは確かです。

新憲法をめぐる国民投票

このような錯綜した国際環境のなか、冒頭で述べたように、エジプトでは1月14日、15日の両日、暫定政府が示した新憲法草案の是非をめぐり、国民投票が実施されます。この憲法草案は、2012年11月にモルシ政権下で採択された憲法を修正したものです。新憲法案ではメディアの独立、信仰の自由、女性の権利、人身売買の禁止などが明記されていますが、他方で宗教に基づく政党の結成が禁じられるなど、主にMBを標的とした内容も目立ちます。これに加えて大統領の権限も強化されており、例えば2012年憲法と同様に、大統領が国民投票を通じて議会を解散する権限が認められていますが、2012年憲法では国民投票で否決された場合、大統領は辞職することになっていましたが、新憲法案ではこれが削除されています。さらに軍の権限も強化されており、国防相の人事権は軍に認められています。

人権の保障や定期的な選挙は認められているとはいえ、軍によって全面的にバックアップされた世俗的で強権的な政府が生まれやすい内容といえるでしょう。その意味で、ムバラク政権時代に逆戻りとまでは言えませんが、民主化という観点から言えば少なくとも「半歩後退」と表現できます。とはいえ、この憲法草案が国民投票で採択される可能性は高いと思われます。

リベラル派や少数派のキリスト教徒らは、ムバラク政権を打倒する際にMBなどイスラーム勢力と協力しましたが、2012年憲法の作成過程で後者が前者の要望をほとんど反映せず、数の論理によってイスラーム色の強いものにしたことで、警戒を強めました。また、行政経験の乏しいMBのもとでエジプト経済が大きく回復せず、治安も大きく回復しなかったことは、MBがコアな支持者以外の支援を失い、モルシ退陣を求める抗議デモが全土に広がる原動力にもなりました。昨年7月7日、クーデタ直後のカイロで開かれた数万人規模の反モルシ派の集会で、軍の行動が「クーデタ」ではなく「国民の意思」であったとアピールされたことは、MBに対する広範な不満の広がりを示しました。

いずれの政治勢力も、自らの信条や利益を主張することは当然でしょう。しかし、憲法草案の制定過程とその後のモルシ退陣を求める抗議デモのいずれもが、妥協と協調ではなく、友-敵の識別と数の論理を優先させたことを示しており、これが結果的には、行き詰まりを力で克服するためのクーデタをもたらしたといえます。同様の構図は、フランス革命後のナポレオンの登場にもうかがうことができます。

いずれにせよ、大勢がMBの復活を拒絶し、混乱の収束と安定を求める傾向にあることに鑑みれば、暫定政府の憲法案が国民投票で否決される可能性は低いといえるでしょう。2013年のドル建てリターンを示すMSCI株価指数で、エジプトは新興国分類の2位につけており、クーデタ後のサウジなどによる120億ドルが好感されたとロイターは伝えています。景気が回復傾向を示していることも、暫定政府にとっては好条件です。

中東・北アフリカの流動化が加速する懸念

ただし、仮に国民投票で新憲法案が承認され、その後「ロードマップ」に沿って大統領選挙や議会選挙が予定通りに進んだとしても、それはエジプトおよび中東・北アフリカにとって安定を意味するとは限りません。暫定政府の最高権力者シシ国防相は、大統領選挙に立候補する意欲をみせており、順当にいけば当選する可能性が高いとみられます。

これは確かに、強力な政府が生まれることを予感させるものです。他方、強い政府が反対派を抑制するほど、行き場を失った反対派の不満が暴発しやすいことは、ムバラク政権下のエジプトでもみられたことです。苛烈な取り締まりにより、MBだけでなくイスラーム過激派が疎外感を強め、暴力的な衝突がさらに激しくなる危険性は、早くから指摘されています。憲法草案が国民投票で承認されれば、それは「シシ大統領の誕生」に向けた道程が加速することを予感させると同時に、エジプトでさらなるテロと鎮圧の連鎖に向かうことへの懸念を深めさせる要因にもなり得るのです。

この状況は、米国にとって一長一短です。エジプトに強力な政府ができることは、対テロ戦争や安全保障の文脈において、米国にとって好条件です。また、先述のように、ロシアがエジプトへの関与を深めているなかにあっては、できるだけ早く関係を改善する必要性を米国政府は感じているでしょう。

ただし、世俗的で軍を背景とする大統領が生まれた際、米国があまり露骨に友好的な関係を築けば、MBだけでなくイスラーム過激派を刺激するだけでなく、現在のエジプト暫定政府に批判的なトルコやイランとの関係においても、大きな摩擦、あるいは少なくとも不確定要素を生みかねません。イスラーム主義的なエルドアン政権のもとで、米国との関係はやや疎遠になりつつありますが、それでもトルコはNATO加盟国で、米国の中東・北アフリカ戦略にとっての一つの要です。他方、周知のように、イランは昨年11月、核開発問題をめぐって欧米諸国と歴史的な合意を達成したばかりで、エジプト情勢への米国の姿勢がイランを再び硬化させる懸念も否定できません。トルコ、イランとの関係は、シリア問題にも波及し得る要素です。

新憲法が採択され、少なくとも選挙で選出された大統領・議会のもとで統治が行われること自体は、エジプトにとって必須のステップといえるでしょう。しかし、ロードマップの実施自体が、エジプトにとって、そして中東・北アフリカをとりまく国際環境にとっての摩擦や不確定要素を大きくする側面もまた、看過できません。中東・北アフリカ情勢は、米国の覇権の相対的な衰退と「アラブの春」によって、中長期的に流動化しつつあるわけですが、今回のエジプトにおける新憲法の是非をめぐる国民投票は、これをさらに加速させる可能性が大きいといえるでしょう。

国際政治学者

博士(国際関係)。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。アフリカをメインフィールドに、国際情勢を幅広く調査・研究中。最新刊に『終わりなき戦争紛争の100年史』(さくら舎)。その他、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『世界の独裁者』(幻冬社)、『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『日本の「水」が危ない』(ベストセラーズ)など。

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