戦国時代の瀬名だけでなかった。鎌倉時代に暗躍した3人の悪女の過激な行動
大河ドラマ「どうする家康」に登場する瀬名は、後世の史料により悪女とされた。今回は、鎌倉時代に暗躍した3人の悪女の過激な行動を取り上げることにしよう。
1.北条政子(1157~1225)
北条政子は、源頼朝の妻である。政子が「尼将軍」として、鎌倉幕府の成立に貢献したことは事実であるが、一方で芳しくない評価も付きまとうので、そのいくつかの事例を紹介することにしよう。
夫の頼朝には、亀の前という愛人がいた。愛人の存在を知った政子は、牧宗親に命じて、滞在していた屋敷を襲撃させた。亀の前は逃げたが、怒りが収まらなかった政子は、屋敷を提供した伏見広綱を流罪にしたという。
政子の子・源頼家が危篤になったとき、政子は頼家の弟の実朝を擁立しようとした。乳母の夫の比企能員がこれに反対するが、父の時政と図って謀殺。頼家を修禅寺に幽閉して将軍職を奪い、翌年には死に追いやった。
2.牧の方(生没年不詳)
牧の方は、政子の父・時政の後妻である。元久2年(1205)閏7月、時政と牧の方は実朝を暗殺し、娘婿の平賀朝雅を新将軍に擁立しようとしたが、この目論見は失敗した。『吾妻鏡』によると、牧の方は事件の首謀者とされている。
一説によると、時政を唆して挙兵させたのは、牧の方であると言われている。挙兵の失敗により時政は失脚し、鎌倉を追放されて伊豆へと流された。以後、『吾妻鏡』には姿を見せなくなる。なお、その後、牧の方は上洛した。
3.伊賀の方(生没年不詳)
伊賀の方は、北条義時の後妻である。貞応3年(1224)6月から閏7月にかけて、伊賀氏の変が勃発した。ちょうど、夫の義時の亡くなったあとだった。義時の死後、伊賀の方は自分が産んだ政村を後継の執権に据え、娘婿の一条実雅を実朝の後継の征夷大将軍に就けようとした。
むろん、変は伊賀の方の単独ではなく、伊賀一族が絡む政変だった。しかし、伊賀の方ら伊賀一族の陰謀は未然に察知され、当初の予定どおり泰時が義時の跡を継いで、執権の座に就いた。変後、伊賀の方は伊豆北条に流罪となり、伊賀一族も流罪となった。