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【戦国こぼれ話】千利休の「利休七哲」の1人、芝山監物とはどんな人物だったのだろうか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
芝山監物は、「利休七哲」の1人として知られている。(写真:アフロ)

 表千家北山会館(京都市北区)で、「千家十職展 新しい作品を中心に」が開催されている。千利休といえば、「利休七哲」が有名である。その中の1人である芝山監物はあまり知られていないが、いかなる人物だったのだろうか?

 芝山監物は生没年不詳。「利休七哲」(瀬田掃部、蒲生氏郷、細川忠興、古田織部、牧村兵部、高山南坊右近、芝山監物)の1人である(メンバーについては諸説あり)。

 最初、監物は有岡城(兵庫県伊丹市)主の荒木村重に従っていた。ところが、村重が織田信長に謀反を起こし、追放されて以後は、信長に仕えた。

 信長が天正10年(1582)6月に本能寺の変で明智光秀に急襲され、横死すると、その後継者の豊臣秀吉の配下となった。

 秀吉に仕官した監物は御伽衆の1人に加えられ、1万石を知行として給与された。御伽衆とは主人の側に仕え、武辺咄などをする役割があった。相当な教養が必要な役目である。

 その間の天正9年(1581)、監物は山上宗二、津田宗及らを招き、茶会を催した。天正12年(1584)には、秀吉の居城の大阪城で茶会に招かれている。この頃から、監物の茶人としての記録が見える。

 天正16年(1588)に後陽成天皇が聚楽第に行幸した際は、監物がその先導役を務めた。その2年後の小田原合戦にも従軍するなどし、常に秀吉の身辺に仕えた。

 監物は、もっとも多く利休の書状を受け取っており、その親密度をうかがうことができる。2人は日常的に書状を交わし、利休が監物を茶会に誘った書状も残っている。監物が利休の高弟だった所以である。

 『天王寺屋他会記』などによると、監物は利休とともに茶会に参加したことが明らかである。『利休百会記』などにも、利休が監物を茶会に招いた記録が残っている。2人はたえず、茶を共にしたのである。

 また、利休から名物の黒楽茶碗「雁取」(長次郎作)を贈られていることも、両者の強い関係を意味しよう。長次郎は楽焼の陶工で、楽家の初代であり、その作品は高く評価されている。

 なお、監物が愛用した茶道具は、芝山型手水鉢、芝山緞子などとして、後世に名を残した。残念ながら、亡くなった年は不明である。監物は武将としては無名かもしれないが、ぜひ知っておきたい茶人である。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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