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小牧・長久手の戦いの前夜、織田信雄に惨殺された3人の家臣

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(写真:イメージマート)

 現代でも、社長が意のままにならない重役を更迭することはあろう。小牧・長久手の戦いの前夜、織田信雄の意に添わず、惨殺された3人の家臣がいたので紹介することにしよう。

◎津川義冬(?~1584)

 義冬は斯波義統の子であるが、生年は不詳である。のちに、津川姓に改姓した。もともと義冬は織田信長の家臣だったが、やがて信雄(信長の次男)に仕えるようになった。天正4年(1584)、信雄が北畠一族を討滅した際、義冬も大いに軍功を挙げた。

 天正12年(1584)、信雄と羽柴(豊臣)秀吉との関係が悪化すると、義冬ら重臣は秀吉と通じていることが疑われた。同年3月6日、義冬は長島城でほかの重臣とともに惨殺されたのである。

◎岡田重孝(?~1584)

 重孝は、重善の子として誕生したが、生年は不明である。当初、重孝は信長に仕えていたが、天正10年(1582)6月の本能寺の変で信長が亡くなると、信雄の配下に加わった。岡田家の家督を継いだのは、翌年のことである。

 しかし、天正12年(1584)、信雄と羽柴(豊臣)秀吉が対立すると、重孝ら重臣は秀吉と内通していることを信雄に疑われ、同年3月6日、長島城でほかの重臣とともに殺害されたのである。

◎浅井長時(1569~1584)

 長時は、新八郎の子として産まれた。尾張浅井家の出身で、父の没後に家督を継ぐと、信忠(信長の長男)に仕えたという。天正10年(1582)6月の本能寺の変で信長が横死すると、長時は信雄の家臣に迎えられたのである。

 天正12年(1576)、信雄と羽柴(豊臣)秀吉との関係が悪くなると、長時は信雄から秀吉と通じていると疑念を抱かれ、同年3月6日、長島城でほかの重臣とともに殺されたのである。

◎まとめ

 3人の家臣が信雄に殺されたのは、秀吉の意を受け、衝突を避ける方向で動いたからだろう。そうした言動が信雄の逆鱗に触れたので、秀吉との内通を信雄に疑われた3人は、惨殺されたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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