三方ヶ原合戦前夜、武田信玄が徳川家康に刺客を差し向けたという話は事実か?
世界各地で紛争が勃発しているが、要人が命を狙われることは、決して珍しいことではない。武田信玄と徳川・織田連合軍が激突した三方ヶ原の戦いでは、信玄が徳川家康を殺害するため、刺客を送り込んだというが、それが事実なのか考えてみよう。
元亀3年(1572)10月、武田信玄は甲斐国を出発し、西上の途についた。同年12月、信玄がかねて敵対していた徳川・織田連合軍と三方ヶ原(静岡県浜松市)で激突したのが、三方ヶ原合戦である。結果、徳川・織田連合軍は大敗北を喫したのである。
その合戦前夜、信玄は家康を殺すため、小姓を刺客に仕立て上げたという。この話は、『岩淵夜話集』という書物に書かれたものである。以下、紹介することにしよう。
信玄は家康が小姓を好きだという噂を耳にし、配下の者の子を小姓に仕立て上げた。小姓というのは、主君の近辺に仕え、雑用などをこなす役である。戦時は主君のために、命を掛けて戦うこともあった。
小姓は、主君の男色の相手だったともいわれているが、それが本当のことなのかは疑わしい。「家康が小姓好き」というのは、男色の相手としてのニュアンスと考えてよいだろう。
ある日の夜、家康は仏間で読経をしていると、信玄の刺客となった小姓は、家康が寝ていると考え、寝室に忍び込んだ。そして、布団の上から刀を差したが、もちろん人を刺したという手ごたえはなかった。
そこにタイミングよく家康が戻って来て、小姓を捕らえたのである。家康が小姓を問い質したところ、観念した小姓は事実を話した。小姓はすべてを話したあと、建物の部屋に押し込められたのである。
翌朝、小姓による暗殺未遂事件を知った家臣は、口々に磔刑に処すべきだと提案した。しかし、家康は自分も家臣の子にこういうことをさせることがあるだろうし、小姓には罪はないと述べた。その後、小姓は死を免れ、国境付近まで送り届けられたのである。
とはいえ、この話は史実とは認めがたく、裏付けとなる良質な史料がない。
『岩淵夜話』(大道寺友山著)は、享保元年(1716)に成立した逸話集で、歴史史料には適さないものである。この逸話は、家康の心の広さをアピールするための創作にすぎないと考えられる。